6.3/2023

映画『メッセージ』(2017)において、D.ヴィルヌーヴがおこなったトリックは、「過去の出来事を暗示しているように見せかけた映像が、実は未来の出来事であった」というものだ。

観客は冒頭の映像を、「主人公の過去における出産体験」だと解釈する。しかし本編を経て、実はそれが未来の出来事であると判明する。過去の記憶、ではなく未来の幻視なのだ。

もちろんこのような結末を理解するには、作中特有の設定が必要となる。すなわち、「時間というものが存在しない(あらゆる時間に同時に存在できる)」という、作中に登場する宇宙人の言語を主人公が習得する体験のことだ。

※ここでいう「時間が存在しない」というのは、あたかも時間軸上を空間のように移動できるないし把握できるようなこと。

ただしここで重要なのは、1つの映像が、過去と未来というまったく真逆の2つの意味合いを同時にもちうる、兼ね備え得る、ということなのだ。

 

『メッセージ』以前にも、ヴィルヌーヴは同様のトリックを、『複製された男』(2013)のなかにふんだんに散りばめている。『メッセージ』におけるこのトリックの使用は1通りのみであったが、『複製された男』においては同様の手法が何度も繰り返し、作品内に配置されているのだ。

1つの映像が、現実と妄想/イメージという二重の意味合いを持つ。それゆえに『複製された男』という作品には絶対的な解釈が存在すること能わず、まさに混沌とした様相を呈している。

 

あまりに映像が克明/鮮明なので、「何者も真理からは逃れられない」とすら思わせるほどの現実主義で描いた『プリズナーズ』(2013)を製作する裏で、多様な解釈を許容する『複製された男』を製作している。

 

 

▶︎『複製された男』作品考察

▶︎ヴィルヌーヴ監督作品のメッセージ:「声」に耳を傾ける/可能性を閉さない/開かれた心

 

それでは具体的に、『複製された男』において、1個1個の映像が多重的な意味を持ち、それゆえに作品を一貫した解釈(絶対的解釈/正解の解釈)が成し得ないあり様を見ていこう。

 

と言っても、実は1つの一貫した解釈は存在する。それは素朴に「主人公の複製が実在する」という解釈だ。

※映像がすべて(99%)現実であるとする解釈。ただし例外は存在する。後述。

この素朴な解釈に従えば、この物語は、「瓜二つな2人の男が出会い、互いの妻/恋人をスワッピングするが、片方のカップルは自動車事故で死んでしまう」ということになる。

 

けれどもこの解釈の問題点は、「だから何だ」という感想だけを後に残すということにある。

素朴にこの映画を視ただけでは、主人公の"複製"が存在する理由も分からないし、蜘蛛や秘密の部屋といった物語の鍵となりそうな要素も謎のままだ。

そう、この物語には説明=真相の開示が存在しないのである。淡々と"事実"のみを羅列したものとなっている。

 

しかしながら、注意深く鑑賞すると、このような素朴な鑑賞から生じる素朴な解釈に対して疑問を挟む余地を、作家が用意してくれていることがわかる。

 

それはまず、主人公の"複製"の妻が、主人公に会うために大学のキャンバスを訪れるシーンだ。

主人公、すなわち大学教員と邂逅した「妻」は、彼があまりに夫と瓜二つだったので、思わずその場で夫に電話をかける。

するとなんと、電話に出たのは夫だった。このことはまるで、夫と瓜二つの別人が実在することを裏付ける動かぬ証拠であるように思える。

しかしながら、よくよく映像を眺めてみれば、夫が妻からの電話に応答した時、タイミングよく大学教員である主人公は物陰に隠れている。

もしも大学教員が、妻の目の前、ないし視界に入った状態で夫が電話に応答したのなら、大学教員と、俳優という瓜二つな別人どうしの存在が(妻の視点から)実証されるだろう。

しかし妻の視界からちょうど大学教員が消えたタイミングで夫が電話に応答したのでは、瓜二つな2人の人間の存在を証明することにはならないのである。

通常なら、ドッペルゲンガーの存在を実証する場面で、あえて作家は確証を提示しない。ぼんやりと、ゆるく映画を鑑賞している頭脳にとってはこのシーンによって証明が完了したようにも思えるけれども、厳密に、正しくみれば証明はあえて完了していないのだ。

ただしこのシーンは、瓜二つな2人の人間の存在の証拠にはならないけれども、かといって2人が同一人物である(どちらかが一方を演じているー互いが互いを演じているー)ということの証拠にもならない。なぜならば、妻の電話に夫が応答した時、大学教員の姿は見えていないから、大学教員が夫の声で応答したともしていないとも言えないからである。

とはいえこのシーンにおいて、ドッペルゲンガーの存在する証拠を提示している場面であるかのように演出しておきながら、厳密には証明を未完で終えているということは、"複製"が実在する(別々の人間でありながら瓜二つの2人の人間が存在する)という素朴な解釈に疑問を挟み、それとは異なった解釈を視聴者へ促そうとする意図があるように思えるのだ。

 

▶︎妄想説/演技説

 

D.フィンチャー監督作品『ファイトクラブ』(1999)を鑑賞済みの視聴者にとっては、『複製された男』を視て、「主人公は不眠症で、昼間は大学教員を、夜は俳優/夫を演じているのではないか?」という説を指摘するのは難しいことではないだろう。実際、作中には主人公が「眠れない」と吐露する場面もあるし、彼はいつも眠そうに/だるそうにしている。

主人公と俳優とが面会する場面があるけれども、あれは『ファイトクラブ』と同様に、幻覚の人格と対面しているのだ、と。つまり主人公は不眠症で、もう1人の人格を持ち、その人格が主人公の知らないところで俳優として活動していたのではないか?と。ないし、主人公は解離性同一症なのではないか、と。

 

▶︎この解釈に従えば、映画冒頭における主人公の生活ルーティンを示す一連のシークエンスがミスリーディングを誘う演出だった、という解釈がもたらされる。

 

このような解釈(不眠症説/多重人格説)は、1つの肉体に大学教員と俳優という異なる2つの人格が宿っているということを前提とする。けれども容易にこの解釈に対する反証を挙げることができる。それはすなわち物語の最終盤だ。肉体が1つしかないということは、主人公が自動車事故に遭った直後に、何事もなかったかのように妻との生活に戻っているということは不可能なのだ。

 

では、「2つの別人が存在する」のでも、「1つの肉体に2つの別人格が宿っている」のでもないという時、この作品をどのように解釈したらよいのだろうか。

※もちろん、何ら意味をもたらさない「複製実在説」が(複製が存在するというその異例さをのぞいては)論理的には整合的であることは間違いがない。けれども実在説がこの作品に対する正当な解釈としては除外されてしまうのは、まさにその「意味がない」ゆえだ。ただし後述するが、たとえ実在説には意味がなかったとしても、この作品を正当に批評するうえで実在説は誰しも通過すべき解釈である。実在説を踏まえたうえで他の説を検討し、この作品の意図というものを理解すべきだからだ。

 

 

1つの解釈は、主人公の肉体はたしかに1つなのだが、主人公は複製が存在するフリをしており、また時折、非現実=主人公の内面、妄想や想像、イメージ、過去や記憶の映像が入り混じっている、というものである。

元々主人公だと思われていた大学教員は、その生活ルーティンが描写されることで主人公だと思われるのだが、実は俳優の演技の一環であり、俳優は大学教員としての顔を使って、まるで自らのそっくりさんが存在するかのように妻に対して振る舞っている、というあまりに荒唐無稽なものとなる。(2度目は喜劇として)しかしこの解釈の問題点は、俳優としての仕事はせいぜい2〜3本の男が、大学教員としての収入によって生活しているはずなのに、妻は彼の本業を知らないらしいという矛盾を生じていることだ。ここに来ていよいよ混沌として映画を一貫する正しい解釈を行うことは不可能にも思えてくる。

 

(5/25のメモより)

 

 

つづく