6.5/2023

週末は、「御仏の殺人」という捜査体験ミステリーを自宅で楽しんだ。友人3人と共に。

それからスナックへ行った。

時間をさかのぼると、昼食には冷麺を食べた。

土曜日の出来事。

 

【日記① 】今日は自宅で謎解きを楽しんだ。自分はあまりentertainingな人間ではないので、付き合ってくれた友達には感謝している。

【日記②】スナックでしこたま(?)飲んだ。酒の味を楽しむというよりは、アルコールという化学物質が人体にもたらす快楽の効果を楽しんだので、奔放な自分をいつもマスターにお世話してもらっている気分になり、これもまた感謝。 -6/3のメモより

 

生きていると、他者に対して自分が何らかの影響を及ぼすことは避けられず、その際、報酬と対価の関係が不明瞭な「借り」を作ることがしばしばあるが、その借りを、幸せに(肯定的に)捉えつつ、その漠然とした恩にどう報いるかを主題に生きられたらなあと思った。

 

カラオケの場を①「自分の声を自分で聴いて今後どう修正するか考える場所」と考えるか、②ただ歌うことに快楽を見出す場所と考えているので、「自分の歌声で他者を魅了する」などという願望はあまりにおこがましく、①の場合を究めつくした人、ないし天性の才能のある人だけが栄光に浸れる境地。

 

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我々の意識/気分に煙草がもたらす明瞭さ/明晰さは、まるで外的な脅威/危機感に迫られた時のそれと同様で、身に危険が及んだ哺乳類の反応に等しく、単に快楽/快感が身を弛緩させるのみではない。

 

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ミステリ/サスペンス(虚構/フィクション∈文学作品,映像作品)は2種類の性質を兼ね備えているようで、1つは現実的な性質、もう1つは虚構としての、イメージとしての性質、らしい。

 

一般的に、ミステリ作品の目的は、事件の犯人や真相(=どのようにして、どうして、犯行がなされたか、いつ、どこで、etc.)を解明すること(=根拠/証拠に基づき、論理的に説明し、可能なら犯人の自白を引き出す)にある。

 

のだが、ここで「現実的な性質」とは、あたかも事件が実際に我々の住む現実世界において発生したと仮定し、実際に起こった事件の犯人を特定するためにどのような証拠に基づいたらよいかを考えること。

 

そして「虚構としての、イメージとしての性質」とは、ミステリ作品(フィクション)がどこまでも現実的ではないということ…例えば、作家が用意した手札だとか誘導に乗っかり、時にはやや飛躍した犯人探しが行われること。作家の用意した概念から犯人を選ぶこと?

 

 

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-数学者にまつわるジョーク-

 

天文学者と物理学者と数学者がスコットランドで休暇を過ごしていた。列車の窓から眺めていると、平原の真ん中に黒い羊がいるのが見えた。

天文学者:なんてこった!スコットランドの羊はみんな真っ黒なんだね。
物理学者:違う違う。せいぜい何匹かが黒いだけさ。
数学者:(天を仰ぎながらやれやれという調子で、抑揚を付けて)スコットランドには、少なくとも1つの平原が存在し、そこに1匹の羊が居て、さらにこっち側の片面が黒いということが分かるだけさ。

 

原文 An astronomer, a physicist and a mathematician were holidaying in Scotland. Glancing from a train window, they observed a black sheep in the middle of a field.
"How interesting," observed the astronomer, "all scottish sheep are black!"
To which the physicist responded, "No, no! Some Scottish sheep are black!"
The mathematician gazed heavenward in supplication, and then intoned, "In Scotland there exists at least one field, containing at least one sheep, at least one side of which is black."

 

 

このジョークに、生物学者を追加して「あれはヤギです」と言わせる派生パターンも存在するが、それはさておき、このジョークの主旨は「偽を回避する言明」につとめる数学者の姿をcaptureすることにあるだろう。

 

つまり「正しい(=真なる)言明」をおこなうこと。これは、言明と事実/現実を突き合わせ、言明(命題)の真偽を判定した結果が真であることを目指して、そのようなことばをかたちづくるということだ。

 

これは文章作成のさいにも当てはまるが、映像という架空の言語を撮影するさいにも当てはまる。

映像と現実を見比べたさいに、「偽」だと判定されないこと。

過度な加工はもちろんだし、CG映像もそうだ。

 

偽をきらう数学者的態度に基づいて言明をおこなうように、クリストファー・ノーランは映像製作をおこなう。

 

けれども、厳しい現実主義/実写主義/実物主義/本物主義(「まさに実際にその映像が事実として現実世界において発生してもよい/構わない」主義、シミュレーション主義?)と対照的に、明らかに現実世界のルールからは逸脱した夢想的映像を製作したのが『インセプション』(2010)だ。

この『インセプション』のなかには、実写主義に基づいて製作された映像もあるけれど、実写主義の枠組みの外で製作された映像もある。

インセプション』のなかで描かれる夢の世界は、「夢とわかるが実物によって撮影された映像」もあるが、「明らかに夢ないしファンタジー/空想/幻想であり、しかもCGを用いて製作された映像」もある。(コブがアリアドネに対し、夢の世界のルールを共有する場面/パリのシーン)

実写主義に基づく映像でありながらもそれを夢であると思わせる誘導の手法も面白い。

 

ノーランは現実を現実として描く…ファンタジー作品のように「幻想された現実」ではない。

けれども「夢の世界」を、実写によって描きながらも、空想的に…明らかに実写主義から逸脱して描いたことがある。これは「夢の中」という前提/仮定を観客に共有したからこそ、ノーランが自分自身に対して許容できたことだ。

 

すでに述べたように、ノーランは「空想的な現実」は描かない。彼の中では、「現実世界と同様の映画内現実」と、「明らかな夢想」の2種類しかない。現実世界における「現実」と「夢想」の対比をそのまま映像にも適用したのだ。

一般的には、映画は夢想されたことも現実として描くけれども、ノーランは、夢想的なことは夢想として描くべきだ、という流儀で映像を作っているのだ。

 

だから彼が、夢想的なことを映像でやるためには、「夢の中」という許しが必要となる。

夢想的なことは非現実的だという批判を免れないから、夢想的なことをやるために、映画という夢想のなかに「夢の世界」を作る。『インセプション』が、現実のなかに夢の世界をつくるのは、そういう理由なのだろう。

それゆえに、映画内における夢の設計が、映画製作のメタファーである、というメタフィクション的性質が成り立つ。

 

現代最新のサブカルチャーについても、ノーラン作品と同様のことが言えるらしい。

 

>異世界転生ものって、「フィクションについてのフィクション(メタフィクション)であることによって、純粋なフィクションで居ることができている/純粋なフィクションを提供できている」ってこと?(現実的な視点から、フィクションは批判にさらされるので、フィクションinフィクションの世界へ後退)  ー5/30のメモより

 

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6/4(日)  

 

① ジャズ喫茶「Donato」-御茶ノ水

② 書店「猫の本棚」-神保町/水道橋

 

武満徹『夢の引用』が欲しい。自分の考察と、まさにドンピシャだ。

 

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youtu.be

小5ぐらいの頃には夜中にラジオを聴いていた。

地元の放送局にチャンネルを合わせると『星めぐりの歌』が流れてきた記憶がある。

それなりに街ではあるから、盛岡育ちの人間が農業に携わったり、農業の現場に出入りしたりすることは(少なくとも子供のあいだは)あまりないのだが、宮沢賢治効果なのか、盛岡市民にだってそれなりに「農業県民」としての自負が定着していた。

あとはIBCの天気予報のスポンサーがヤンマーであることが大きい(?) 

そしてローカルCMと言えば「ゆきんこ」である(石割桜!?)

 

「農民」という単語は卑しい身分としてのイメージを持たれがちだが、とてもたいせつな職業であると今ではわかる。(家事なり清掃業なり、それが存在しないとみなが困る職業はとても多いが、たいてい軽んじられたり無視されたりしがちで、皆が目指すのはもっと高級な仕事である)

江戸時代における封建制度士農工商においては、農民の序列は第2位だったというが、実質的な扱いはひどかったということも聞く。(序列だけでは家計は満たされない)

学校教育の現場では、最近の教科書から「士農工商」という用語が消えたとも聞くが。

第34回 教科書から『士農工商』が消えた ー前編ー 2021年(令和3年)7月号 / 宇城市

 

高級な仕事が往々にして伴う専門性、つまり専門的な思考に没頭するほど、たしかに身の回りの雑務などはとても面倒に感じるので、肩代わりしてもらうのは重要かも知れないが、人間は先天的に職業の貴賤を感じ取って序列化し、脳内にピラミッド構造を形成しているようなのである。

ピラミッド構造に応じて給与格差が発生しているけれども、このような直感に基づく給与格差のようなものは旧式で、現代では収益が多いものがちの市場原理に基づく変動的な給与制度が優位にも思える。

市場原理は筋が通ってはいるが、収益性は低くとも確かに高尚なもの、素晴らしいものというのは存在するので、行政によって守られても良い(なんとかマネタイズの道を模索するのでも良いが)と感じるが、近年の日本では経済につながらないものは切り捨てるあまりに実質主義的な傾向が幅を利かせつつあるようにも思われるし、税制も崩壊しそうなので、文化-科学や芸術は富豪によって(個人依存で)守られることを期待するしかないのだろうか。中世や近代の王侯貴族、パトロンに期待するのにも似ている。