6.16/2023 -その4 映画『インセプション』について

4.18

 

クリストファー・ノーランによる映画作品の特徴は、大きく2つある。

1つ目は、階層構造の上下と、入れ子構造、そして夢から現実への浮上、である。

2つ目は、「Uターン構造」である。

いずれの特徴も、夢と現実、無知と啓蒙、物語と現実、といった対比ないし差異を通じ、作品内部から現実世界の鑑賞者への回帰という「メタ体験」をはかるものである。

 

1つ目の特徴が明らかに出ているのは INCEPTION (2010) だが、他の作品にもその特徴が垣間見える。短編Doodlebug (1997) は、入れ子構造を率直に視覚化したものと言えるだろう。 

2つ目の特徴である「Uターン構造」は、Memento (2000) と TENET (2020) において顕著だ。The Prestige (2006) にもその傾向が垣間見えるほか、Interstellar (2014)も該当する。

 

 

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4/19

 

 

INCEPTION には大きな2つの特徴がある。

1つは、この映画が「映画をつくる映画」であるということ。

2つ目は、階層構造と、上階から下階への「重力」の作用である。

 

この映画が「映画をつくる映画」であるということは、「夢を見せる」ことが「映画をつくる」ことの比喩であることを意味する。

つまり劇中における「夢」とは、往々にして「映画」の比喩である場合があるのだが、ここで「夢」と「映画」とはともに「イメージ」、つまり心の深いところで夢見られたり、想像されたりされたもの、あるいは夢見たり想像したりすることそのものである。夢と映画とは通底している。

あるいは、映画を「物語」と捉えてもいい。

 

さて、我々は「映画をつくる映画」を見せられるのだが、劇中に、夢を見せられる者と夢を見せる者との姿を、我々は見る。

スクリーンには夢を見せられる者と、夢を見せる者がおり、我々はそのスクリーンを座って視ている。INCEPTION にもまた、この映画をつくった者がいる。

劇中における「夢を視る者」と「夢を見せる者」との関係が、INCEPTIONを視る者と、見せる者とのあいだでも成立している。

ここに、入れ子構造がある。

映画の中にある「視る者-見せる者」という関係が、現実においても成立しているのだ。

この、「映画の中」と「現実」という対比、「夢/映画/物語」と「現実」との関係は、あとあと多く出現するので、覚えておいてほしい。

 

(「入れ子構造」の図)

 

 

 

さて、INCEPTION における1つ目の特徴が、「映画を視る者-見せる者」という関係が、映画の中と現実との両方で同時に成り立つことにより、入れ子構造をつくっていることだと説明した。

この1つ目の特徴を踏まえて、2つ目の特徴について説明する。

INCEPTION の後半に、登場人物達はいよいよ「任務」を開始する。その任務の内容とは、ある人物に夢を見せることである。

現実世界でその人物を眠らせ、彼の夢の中に侵入するのだ。さらにその「夢」の中でも彼を眠らせることによって、「夢の中の夢」、すなわち夢の第2階層ができる。そして夢は、さらに第3階層、第4階層、とつづく。

 

映画の中では最終的に、第4階層から第3階層、第2階層を一気に「浮上」して、第1階層における目覚めを迎える。

この時、主人公だけが夢の第4階層よりも深いところに残っているのだが、彼もまたやがて目覚める。

しかし「彼が目覚めたのは、本当に現実か?それとも彼はまだ夢の中か?」という疑問が視聴者に残るような、曖昧な終わり方を迎え、映画はエンドロールに入る。

 

最後までこの映画を観た者は、「果たして彼は現実で目覚めたのか?それともまだ夢の中にいるのか?」について議論するだろう。

議論が行われるのは、現実において、だ。

我々は、INCEPTIONという映画を終わりまで観て、「現実に持ち越す」のである。

 

すでに述べた通り、映画の終盤に、登場人物達は夢の第4階層から第1階層へと一気に目覚める。

夢からさらに現実へと我々が引き戻されるとき、映画/物語の中で現実と夢のつくる階層は、さらに我々のいる現実とのあいだで階層をつくる。

我々のいる現実と、映画という夢、そして映画の中の夢が階層を作っているのだ。

 

さらに、映画は単にスクリーンなのではない。あるいは、単にスクリーンに写し出される映像なのではない。

映画にとっての夢が、我々にとっての映画であるということは、映画が単に「映像」であるということではなく、我々が夢を視るように映画を視るということ、映画とは我々が思惟する内的なもの、すなわち映画が「イメージ」であるということを意味する。

 

以上が、INCEPTION という映画の2つ目の特徴である。

 

ここまで確認してきたのは、まず第一に、INCEPTION が「映画を視る者と見せるもの」についての映画であり、我々もまたその映画を視ることから、「映画を視る者と見せる者」についての映画を視る者と見せる者、という入れ子構造が発生すること。そしてこの入れ子構造が「現実と夢(映画/物語)のなかで」成立していることだ。

第二に、映画の中の階層構造(夢の中の夢)から現実へと浮上して、観客は目覚めるということだ。INCEPTION は、映画のなかで、「現実のなかの夢の中の夢」という階層構造を成立させるだけでなく、現実と映画とで階層構造を成している。映画が現実に置かれ、観客によって視られることによって補完されるということだ。

 

以上2つの事柄から、INCEPTION は、映画が独立して完成しているのではなく、現実にいる観客によって視られることで、物語の深部から現実へと「浮上」ないし「目覚め」を促すような体験であるということだ。

このような「物語と(それを視る我々のいる)現実」という関係は、今後ノーラン作品について述べるにあたり何度も登場するので、どうか覚えておいてほしい。

 

 

INCEPTION 入れ子構造を描くのはなぜか

あるいは、ノーランが入れ子構造にこだわるのはなぜか。

→ Doodlebug (1997)