6.16/2023 -その5 映画『ダークナイト・ライジング』について

クリストファー・ノーラン監督による「ダークナイト」トリロジー第3部、THE DARK KNIGHT RISES (2012) は、階級間闘争をえがいた作品である。支配階層たる富裕層に対し、最下層からの地殻変動=反乱が起こる。同時に、「ハービー・デントの英雄化」という虚像が崩壊する。これは前作の最終盤に築かれたものだ。

 

※ベインはゴッサムシティの地下深くに軍団を結成しており、ブレイク刑事ら孤児院出身の貧民もまたこの地下に紐づけられることによって、社会階層の上下関係が物理的に視覚化される。

 

ブルース・ウェイン(=バットマン)は、本来支配階級の人間だ。経済格差における「搾取側」でありながら(単にウェイン家に生まれただけではあるが)、革命直前に社会階層の上部から下部へと一気に転落し、セリーナ・カイルらを含む最下層に合流する。

 

ブルースは革命前に転落済みで、社会の底辺にいる。ベインらによる反乱が支配階級に対して起こされたものでありながら、その矛先にブルースが立つことを巧妙に免れている。なぜならば主人公だから。

 

※観客には支配階層に対する反感があり、ベインらによる革命にも一定の支持が想定され、また革命の実行は高揚感をもたらす。一方で、視聴者はしばしば忘れがちであるが、ブルースもまたその支配階層の一員である。ブルースはこの「富裕層」という特権に甘んじることなく、あくまで隠れ蓑として利用し、実質的な経営は他のものに任せ、資産はバットマンとしての活動に、また社会貢献や環境保護活動のために投じている。視聴者は、富裕層としてのブルースの特権に甘んじながらも、彼が我が身を投げ打って肉弾戦に明け暮れることに共感し、彼を支持する。また視聴者は、ベインによる革命に一定の支持を与えながらも、ベインに対する敵対心を抱いており、バットマンとの決着を期待する。

 

ブルースは「大金持ち」としての特性を奪われるが、前作ラストにその布石が為された「バットマンの悪としての偶像化」や、肉体に負った数々の傷、幼なじみであり愛する人でもあったレイチェルの死、両親も友人もない孤独、一般市民からの信頼の喪失、そして執事アルフレッドとの離別も相まって、ブルースという個人に痛みをもたらす。

 

※一般市民からの支持はないが、視聴者はバットマンの「真実」を知っている。これこそまさにバットマンを応援させる源である。

 

この痛みは、莫大な資産と強力なガジェット、そして主人公補正によって守られた無敵のブルースを「どう個人化するか(=より現実的な物語へ)」という問いに回答を与えている。

※ブルースの富は、バットマンとしての力の根源である。この根源は、物語世界のおける経済構造が生み出したものでもある。

 

ダークナイトトリロジーは、「どうせ勝つんだろう」という安心感を前提としたヒーローモノ、アクションモノの幻想を取り払う試みだ。

 

最終的に物語は、ブルースと一体化していた「バットマン」を、ブルースから剥奪する。属人性を失った「バットマン」は、地下育ちの孤児、一般市民へと引き継がれて、ブルースもまた一般市民に帰す。

 

もしこのことを詩的に捉えるなら、「一般市民たる我々の心に英雄が住まっている」ないし「バットマンという虚像は、我々の心が操るものだ」という、英雄像の原型のようなものに回帰している。英雄像は我々の心に住まう物語だ、と。

 

我々の心に住まう英雄像を、作家は探り当てる。

映画の終わりに、現実世界に住む我々へと、英雄像が返還されるのだ。

 

・・・

 

THE DARK KNIGHT RISES が階級間闘争であるという話に戻る。支配階層に対する反乱がベインによって起こされるが、視聴者はあらかじめ、ベインによる支配体制をバットマンが打ち砕くと期待している。

 

支配階層が追放され、バットマンは一般市民と共にあるが、革命を起こした底層の人々のあいだにも闘争がある。

 

ここで、同じ底層でありながら、支配体制を築いたベインと、我々の応援する一般市民側とを区別するものは何か。あるいは観客が後者を正義だと見なし応援するのはなぜか?バットマンが後者に加わるだろうと期待するのはなぜか?

観客が後者を応援すること、バットマンを応援すること。バットマンが後者側でありベインが異質なこと。そのような印象操作が、映画のなかでどのように行われているか?

 

「そもそもバットマンとベインは戦う宿命にあるからだ」と回答するならば、それもそうだ。元々戦う前提で映画は作られているのだから。それが映画の本質、物語というものの原型(類型?)だというならそれもそうなのだ。

 

バットマンとベイン、ないし正義と悪、ないし自己と敵との戦いは、人形どうしを戦わせる童心に根差すに他ならない。

 

ここで「バットマンの英雄像が、現実世界にいる我々の心へと返還される」という、前述の話につながる。自己と敵を戦わせる我々の童心、そして英雄像、いずれも他者のつくった映像の中の物語だが、元々私たちの心の中に住まうイメージなのだから。

 

 

4.21のメモより. 6/16修正