7.12/2023

 

 

美しく均整のとれたシネマトグラフィ

引用元:https://twitter.com/filmstofilms_/status/1678476924505452570?s=20

 

ホアキン・フェニックス主演、リドリー・スコット監督『ナポレオン』(AppleTV映画)

11月に劇場公開

 

予告編だけでも、過去のスコット作品『グラディエーター』(2000)を凌駕する名作の予感。

 

スコット監督といえば、他にも『キングダム・オブ・ヘブン』(2005)など、歴史大作・戦争大作の製作には定評がある。(絵コンテにおいて発揮される高い画力も評判が良いだけあって、画面構築に優れる。)

 

youtu.be

 

 

ナポレオンといえば栄光と転落。

かつてスタンリー・キューブリックが、ナポレオンの人生を映画化に着手したものの頓挫。

その際に蓄積した知識を転用して、『バリー・リンドン』(1975)を製作したと言う。

 

スタンリー・キューブリックの画面構築 -映画『バリー・リンドン』(1975)より

 

 セリフへの依存度を極限まで低め、映像で説明することへのこだわりが、かえって映画への深い理解のための思考の必要性を高める。すなわち、言語性を高める。

 

 ノーランの理想がサイレント映画だという言説も見かけたが、彼のセオリーはもっと本質的なところにある。技術的制約からセリフを収録できないサイレントと、いくらでも言葉で説明できるのにそれをしないノーランとでは違う。例え、結果的に「言語への依存度が低い」点においては同一だったとしても。

 

 ノーランがキューブリックから影響を受けた旨についてはしばしば見かけるけれども、確かに、言語依存性の低さにおいて両者は同一の哲学(信条)を抱いているようにみえる。徹底的な画面構築、そのために撮影現場において発揮される物質・物体へのこだわりだ。

 

 まず、そこに映っているものがたしかに本物である/リアルであると確認する…それが作り物であることを疑いもさせないことが、視覚的なもの・物質的なもの…画面に映っているものを補完する、人間の、抽象的な、思惟が生ずる空間を確保する。

7.2/2023

映画『天国の日々』(テレンス・マリック監督, 1978年)を視た。 on U-NEXT.

 

貧しい労働者のカップルが、なぜか「兄妹」と偽って年季奉公している。

若くして余命宣告された裕福な牧場経営者は、"妹"を見初めてプロポーズする。

"兄"は、どうせ一年もすれば死ぬだろうからと、"妹"を牧場主と結婚させる。

"妹"は、稼ぎのために"兄"が自分を嫁がせようとしたことにショックを受けながらも、次第に牧場主と打ち解ける。(けれども体は許さなかった模様)

だが牧場主はなかなか死にそうにない。

やがて牧場主は、"兄妹"がどうやら恋人同士らしいと勘付く。

周囲の人間も初めから2人が怪しいと疑っており、財産目当てで寄生しているのだろうと勘ぐる。

これ以上は耐えられないと、"兄"は牧場を去るが、季節が巡り再び牧場に戻ってくる。

牧場主は"兄"を殺そうとするが、逆に返り討ちにあって"兄"に刺殺される。

"兄妹"は逃亡するが、やがて追手につかまり、"兄"は銃殺される。

 

"妹"は牧場主に心を許し、愛するようになった矢先。

"兄"は妹へ別れを告げに来た矢先の悲劇であった。

"兄"は"妹"と別れ、"妹"は牧場主と幸せに暮らせるようになると思われた矢先。

 

恋人が、あえて"兄妹"と偽って暮らしているのは、初めから結婚詐欺を狙っていた、あるいは結婚詐欺の格好を取るストーリーのためとしか思えない。(作為性)

細かい指摘をしてしまえば、"兄"と"妹"との決別は電信や手紙などでおこなうことができなかったのか、とも思えるし、"兄"が去ったのであれば、"妹"は真実について牧場主に打ち明けることができていればすれ違いも避けることができたのではないか、と想う。

※時代設定はウィルソン大統領時代、第1次世界大戦前夜の出来事である。

しかしそう簡単に(都合よく)いかないのも現実なのであろう、たとえ"兄"が譲歩したとは言え。

牧場主が余命1年を宣告されながら存えたのも事態を複雑にしたのだろうが、当時の医療技術・医学知識において余命の予測値はなおさら大まかなものであろうし、それをあてにして結婚詐欺をはかった"兄妹"も愚かしいというものだ。

 

例えば野暮な正直さで以て...真実で以て3人が平和に暮らせただろうかと検討するが、所有欲...「女は自分1人のもの」、そんな根源的な本能のようなものがあるかぎり困難だろう。

 

 

・・・・・

 

テレンス・マリック監督作品について

個人的には『ツリー・オブ・ライフ』(2011)の鮮烈さを今でも覚えている。

ニュー・ワールド』(2005)も良い。

シン・レッド・ライン』(1999)は評価の高い作品だろうか。

 

当時(2011-13年頃)、TSUTAYAで借りることができた(自分のできる範囲で)過去作がこれら3つだけだったので、『天国の日々』をU-NEXTで鑑賞できたことにありがたみを覚えている。

 

トゥ・ザ・ワンダー』(2012)『聖杯たちの騎士』(2015)を劇場鑑賞したが、あまりにナラティブが喪失しているので視続けるのが苦痛だった。

 

それ以降の作品は鑑賞していないが、『名もなき生涯』(2019)の前半部をDisney+で鑑賞した。映画の事前ストーリーと、実際の視聴体験との乖離について考えさせられる。

6.16/2023 -その5 映画『ダークナイト・ライジング』について

クリストファー・ノーラン監督による「ダークナイト」トリロジー第3部、THE DARK KNIGHT RISES (2012) は、階級間闘争をえがいた作品である。支配階層たる富裕層に対し、最下層からの地殻変動=反乱が起こる。同時に、「ハービー・デントの英雄化」という虚像が崩壊する。これは前作の最終盤に築かれたものだ。

 

※ベインはゴッサムシティの地下深くに軍団を結成しており、ブレイク刑事ら孤児院出身の貧民もまたこの地下に紐づけられることによって、社会階層の上下関係が物理的に視覚化される。

 

ブルース・ウェイン(=バットマン)は、本来支配階級の人間だ。経済格差における「搾取側」でありながら(単にウェイン家に生まれただけではあるが)、革命直前に社会階層の上部から下部へと一気に転落し、セリーナ・カイルらを含む最下層に合流する。

 

ブルースは革命前に転落済みで、社会の底辺にいる。ベインらによる反乱が支配階級に対して起こされたものでありながら、その矛先にブルースが立つことを巧妙に免れている。なぜならば主人公だから。

 

※観客には支配階層に対する反感があり、ベインらによる革命にも一定の支持が想定され、また革命の実行は高揚感をもたらす。一方で、視聴者はしばしば忘れがちであるが、ブルースもまたその支配階層の一員である。ブルースはこの「富裕層」という特権に甘んじることなく、あくまで隠れ蓑として利用し、実質的な経営は他のものに任せ、資産はバットマンとしての活動に、また社会貢献や環境保護活動のために投じている。視聴者は、富裕層としてのブルースの特権に甘んじながらも、彼が我が身を投げ打って肉弾戦に明け暮れることに共感し、彼を支持する。また視聴者は、ベインによる革命に一定の支持を与えながらも、ベインに対する敵対心を抱いており、バットマンとの決着を期待する。

 

ブルースは「大金持ち」としての特性を奪われるが、前作ラストにその布石が為された「バットマンの悪としての偶像化」や、肉体に負った数々の傷、幼なじみであり愛する人でもあったレイチェルの死、両親も友人もない孤独、一般市民からの信頼の喪失、そして執事アルフレッドとの離別も相まって、ブルースという個人に痛みをもたらす。

 

※一般市民からの支持はないが、視聴者はバットマンの「真実」を知っている。これこそまさにバットマンを応援させる源である。

 

この痛みは、莫大な資産と強力なガジェット、そして主人公補正によって守られた無敵のブルースを「どう個人化するか(=より現実的な物語へ)」という問いに回答を与えている。

※ブルースの富は、バットマンとしての力の根源である。この根源は、物語世界のおける経済構造が生み出したものでもある。

 

ダークナイトトリロジーは、「どうせ勝つんだろう」という安心感を前提としたヒーローモノ、アクションモノの幻想を取り払う試みだ。

 

最終的に物語は、ブルースと一体化していた「バットマン」を、ブルースから剥奪する。属人性を失った「バットマン」は、地下育ちの孤児、一般市民へと引き継がれて、ブルースもまた一般市民に帰す。

 

もしこのことを詩的に捉えるなら、「一般市民たる我々の心に英雄が住まっている」ないし「バットマンという虚像は、我々の心が操るものだ」という、英雄像の原型のようなものに回帰している。英雄像は我々の心に住まう物語だ、と。

 

我々の心に住まう英雄像を、作家は探り当てる。

映画の終わりに、現実世界に住む我々へと、英雄像が返還されるのだ。

 

・・・

 

THE DARK KNIGHT RISES が階級間闘争であるという話に戻る。支配階層に対する反乱がベインによって起こされるが、視聴者はあらかじめ、ベインによる支配体制をバットマンが打ち砕くと期待している。

 

支配階層が追放され、バットマンは一般市民と共にあるが、革命を起こした底層の人々のあいだにも闘争がある。

 

ここで、同じ底層でありながら、支配体制を築いたベインと、我々の応援する一般市民側とを区別するものは何か。あるいは観客が後者を正義だと見なし応援するのはなぜか?バットマンが後者に加わるだろうと期待するのはなぜか?

観客が後者を応援すること、バットマンを応援すること。バットマンが後者側でありベインが異質なこと。そのような印象操作が、映画のなかでどのように行われているか?

 

「そもそもバットマンとベインは戦う宿命にあるからだ」と回答するならば、それもそうだ。元々戦う前提で映画は作られているのだから。それが映画の本質、物語というものの原型(類型?)だというならそれもそうなのだ。

 

バットマンとベイン、ないし正義と悪、ないし自己と敵との戦いは、人形どうしを戦わせる童心に根差すに他ならない。

 

ここで「バットマンの英雄像が、現実世界にいる我々の心へと返還される」という、前述の話につながる。自己と敵を戦わせる我々の童心、そして英雄像、いずれも他者のつくった映像の中の物語だが、元々私たちの心の中に住まうイメージなのだから。

 

 

4.21のメモより. 6/16修正

6.16/2023 -その4 映画『インセプション』について

4.18

 

クリストファー・ノーランによる映画作品の特徴は、大きく2つある。

1つ目は、階層構造の上下と、入れ子構造、そして夢から現実への浮上、である。

2つ目は、「Uターン構造」である。

いずれの特徴も、夢と現実、無知と啓蒙、物語と現実、といった対比ないし差異を通じ、作品内部から現実世界の鑑賞者への回帰という「メタ体験」をはかるものである。

 

1つ目の特徴が明らかに出ているのは INCEPTION (2010) だが、他の作品にもその特徴が垣間見える。短編Doodlebug (1997) は、入れ子構造を率直に視覚化したものと言えるだろう。 

2つ目の特徴である「Uターン構造」は、Memento (2000) と TENET (2020) において顕著だ。The Prestige (2006) にもその傾向が垣間見えるほか、Interstellar (2014)も該当する。

 

 

・・・

 

4/19

 

 

INCEPTION には大きな2つの特徴がある。

1つは、この映画が「映画をつくる映画」であるということ。

2つ目は、階層構造と、上階から下階への「重力」の作用である。

 

この映画が「映画をつくる映画」であるということは、「夢を見せる」ことが「映画をつくる」ことの比喩であることを意味する。

つまり劇中における「夢」とは、往々にして「映画」の比喩である場合があるのだが、ここで「夢」と「映画」とはともに「イメージ」、つまり心の深いところで夢見られたり、想像されたりされたもの、あるいは夢見たり想像したりすることそのものである。夢と映画とは通底している。

あるいは、映画を「物語」と捉えてもいい。

 

さて、我々は「映画をつくる映画」を見せられるのだが、劇中に、夢を見せられる者と夢を見せる者との姿を、我々は見る。

スクリーンには夢を見せられる者と、夢を見せる者がおり、我々はそのスクリーンを座って視ている。INCEPTION にもまた、この映画をつくった者がいる。

劇中における「夢を視る者」と「夢を見せる者」との関係が、INCEPTIONを視る者と、見せる者とのあいだでも成立している。

ここに、入れ子構造がある。

映画の中にある「視る者-見せる者」という関係が、現実においても成立しているのだ。

この、「映画の中」と「現実」という対比、「夢/映画/物語」と「現実」との関係は、あとあと多く出現するので、覚えておいてほしい。

 

(「入れ子構造」の図)

 

 

 

さて、INCEPTION における1つ目の特徴が、「映画を視る者-見せる者」という関係が、映画の中と現実との両方で同時に成り立つことにより、入れ子構造をつくっていることだと説明した。

この1つ目の特徴を踏まえて、2つ目の特徴について説明する。

INCEPTION の後半に、登場人物達はいよいよ「任務」を開始する。その任務の内容とは、ある人物に夢を見せることである。

現実世界でその人物を眠らせ、彼の夢の中に侵入するのだ。さらにその「夢」の中でも彼を眠らせることによって、「夢の中の夢」、すなわち夢の第2階層ができる。そして夢は、さらに第3階層、第4階層、とつづく。

 

映画の中では最終的に、第4階層から第3階層、第2階層を一気に「浮上」して、第1階層における目覚めを迎える。

この時、主人公だけが夢の第4階層よりも深いところに残っているのだが、彼もまたやがて目覚める。

しかし「彼が目覚めたのは、本当に現実か?それとも彼はまだ夢の中か?」という疑問が視聴者に残るような、曖昧な終わり方を迎え、映画はエンドロールに入る。

 

最後までこの映画を観た者は、「果たして彼は現実で目覚めたのか?それともまだ夢の中にいるのか?」について議論するだろう。

議論が行われるのは、現実において、だ。

我々は、INCEPTIONという映画を終わりまで観て、「現実に持ち越す」のである。

 

すでに述べた通り、映画の終盤に、登場人物達は夢の第4階層から第1階層へと一気に目覚める。

夢からさらに現実へと我々が引き戻されるとき、映画/物語の中で現実と夢のつくる階層は、さらに我々のいる現実とのあいだで階層をつくる。

我々のいる現実と、映画という夢、そして映画の中の夢が階層を作っているのだ。

 

さらに、映画は単にスクリーンなのではない。あるいは、単にスクリーンに写し出される映像なのではない。

映画にとっての夢が、我々にとっての映画であるということは、映画が単に「映像」であるということではなく、我々が夢を視るように映画を視るということ、映画とは我々が思惟する内的なもの、すなわち映画が「イメージ」であるということを意味する。

 

以上が、INCEPTION という映画の2つ目の特徴である。

 

ここまで確認してきたのは、まず第一に、INCEPTION が「映画を視る者と見せるもの」についての映画であり、我々もまたその映画を視ることから、「映画を視る者と見せる者」についての映画を視る者と見せる者、という入れ子構造が発生すること。そしてこの入れ子構造が「現実と夢(映画/物語)のなかで」成立していることだ。

第二に、映画の中の階層構造(夢の中の夢)から現実へと浮上して、観客は目覚めるということだ。INCEPTION は、映画のなかで、「現実のなかの夢の中の夢」という階層構造を成立させるだけでなく、現実と映画とで階層構造を成している。映画が現実に置かれ、観客によって視られることによって補完されるということだ。

 

以上2つの事柄から、INCEPTION は、映画が独立して完成しているのではなく、現実にいる観客によって視られることで、物語の深部から現実へと「浮上」ないし「目覚め」を促すような体験であるということだ。

このような「物語と(それを視る我々のいる)現実」という関係は、今後ノーラン作品について述べるにあたり何度も登場するので、どうか覚えておいてほしい。

 

 

INCEPTION 入れ子構造を描くのはなぜか

あるいは、ノーランが入れ子構造にこだわるのはなぜか。

→ Doodlebug (1997)

6.16/2023 -その3 Memento(2000)→TENET(2020)

映画 Memento (2000)は、映像外で行われがちな「説明」を映像内に収め、映像内で完結させる試みであった。

 

因果関係の時系列の連鎖を分割し、順序を逆転することによって、既存のミステリー作品の構成を踏襲し、結果から原因へとさかのぼった。一方で、観客は単に映画を時系列順に並び替えることによって、原因から結果まで因果関係の説明が完結する。(事実の羅列となる)

 

  • 単なる事実の羅列とならぬよう、因果関係を逆転させることによって、結果から原因を探求する既存のミステリ作品(サスペンス?)との整合性を持ち、「真相の開示」という娯楽を提供する。(時間軸の細かい分割により、この「真相の開示」が短い間隔で出現することが、Memento の娯楽的価値をより高める)

 

 

このような、「因果関係の分割と入れ替えの手法」の意図は、既存のミステリー作品に不備があるからだ。

一般的なミステリー作品は、結果から原因へとさかのぼる構造をしている。なぜならば、「原因」という謎を残すことによって、原因を探究する過程を娯楽として提供したり、原因そのものの斬新さを競うからだ。

しかし、原因(犯人、真相、動機、犯行の手口やトリックなど)が明かされたあと、結果から原因までを再構成する作業は、視聴者に委ねられがちだ。映像によって現在形で(リアルに)示されることがない。そのため、作品の「正しさ」を吟味する作業を視聴者が行うことができない。

 

既存のミステリ作品においては、因果関係における原因が明かされたとしても、原因から結果へ至るプロセスが明示的に映像によって示されることがない。そのため、デカルト的な「分析・総合」の作業ができない。数学の証明を吟味するようにして原因から結果までの合理性をたしかめることができないのだ。

ミステリ作品=謎の提示。捜査過程における推測。真相の開示によって、謎=結果へ至るまでの因果関係を構築する。正しさを吟味する。合理性など。

 

デカルトによる「分析・総合の規則」:

 

一:明晰の規則。自分が明証的に真理であると認めたもので、いかなる疑う理由もないほど精神に明晰判明にあらわれるもの以外は、真理として受け入れないこと。
二:分析の規則。検討する問題をできるだけ小さな部分に分ける
三:総合の規則。それらの内もっとも単純で認識しやすいものから段階的にもっとも複雑なものへと順序立てて考える
四:枚挙の規則。見落としがないように一つひとつ数え上げて完全に枚挙し、全体を見渡す。

 

デカルト方法序説』より)

 

 

デカルトの「方法」が参考にしているのはおそらく数学的証明であり、公理体系のような知識の体系、つまり確実な公理から定理を導き出すことで成り立つ「確実な知識の集積」を獲得することを理想としている。

 

ノーランの思考法の基礎には、デカルト的な、あるいは数学の証明のような、「分析と総合」の発想に基づいて視聴者が吟味できるような映像の提供を行うという発想がある。

 

デカルトの「方法」に従えば、映画という「嘘」は容易に否定されて終わりそうに思える。

なぜならば、ある命題を偽として否定するように、映画が映し出す映像は「現実では起こり得ない」。すなわち幻想や空想、妄想であることがほとんどだからだ。

 

4.11 人は映画が実現できないことを知っているからだ。

 

(映像の言語化・命題化→TENETいう不可能図形。つまり命題化不能性)

 

6.19 また、数学でいうところの「仮定」の個数が必要最小限であることも、映画をより「現実的」なものにすることに役立つだろう。

 

しかし、ノーランが単に「映画は嘘だ」と否定して終わることはない。

むしろ、映画を「イメージ」や「夢」(あるいは観客の無知につけ込んで騙す幻影)として認めながらも「映画(映像)が観客を騙す」という事実を起点にし、「映画とは何か/どのようなものか」を分析し、得られた事実を「確かなもの」として残そうとしている。

それゆえ、ノーランは映画の中に「映画そのもの」をメタファーにして入れ込む。「映画とは何か」「映画と現実の違いは何か」について言及したり、観客の無知を批判したりする。彼の興味の射程はまた、「映画がいかにしてつくられるのか」、すなわち映画と作家の関係や、「作家の意識する映画がいかにして観客に提供されるか」にまで及ぶ。

 

ノーランは厳しい「現実的な視点」を持ちながらも、映画の持つ「夢」の部分/空想的な部分を諦めていない。観客になお空想/夢想を提示するのにはそんな理由がある。

 

ノーランの映画作りは、以下のような目的意識のもとで行われている:まず一度映画というものを「嘘」として疑わせる/疑う。次に「映画が観客を騙している」ことを事実として提示する。そして映画や、映画を鑑賞する(映画が鑑賞者にどのように働きかけているか/映画が鑑賞者の内側に何を起こしているか)という現象を、(半ば科学的、あるいは哲学的に)分析・考察し、その結果を隠喩やセリフといった形で作品の中に折り込み、観客を啓蒙するのだ。

 

夢想家に向けて映画を作りながらも、ノーランは夢想を無知として批判し、しかし夢想が成立する映画体験を確かな事実としてその知識を提供するのである。

 

 

空想的側面を持つ作品を提供しながらも、ノーランは「懐疑と、確かな知を得る」という態度を基盤とする作家である。彼は観客の持つ知性に信頼を置き、またある時には知的態度を要求し、またあるいは知性を引き揚げることを期待する。

 

観客や作家自身の「無知」「夢想」「空想」だけに漬け込んだ古い映画に「現実」という視点をもたらし、映画の転換を図るのが、映画作家としての彼だ。

 

懐疑と「確実な知識を得る」態度で鑑賞することによって、表面上は空想的なノーラン作品の奥に知識が見えてくる。

 

 

 

サスペンス(英: suspense、羅: suspēnsus)は、ある状況に対して不安緊張を抱いた不安定な心理、またそのような心理状態が続く様を描いた作品をいう。シリアススリラー(サイコスリラー)、ホラーサイコロジカルホラー)、アクションものといった物語の中で重要な位置を占める。単純に「観客の心を宙吊りにする」という意味でズボンサスペンダーを語源だとする説明もある。

 

 

 

さて、MEMENTOという「分割」と「順序の入れ替え」という手法が、既存のサスペンス・ミステリー作品に対する不満を解消するために提案されたことを述べた。その不満とは何か。既存作品は最後に「真相」を明かすけれども、疑わしいということ。すなわち実現性に乏しいということだ。既存作品には、デカルト的懐疑に基づいて「正しさ」の吟味できるような因果関係の説明が含まれていない、ということだ。

物語のトリックは実際に可能なのだろうか。物語は、鑑賞者に対してある程度以上の知的レベルを要求するにもかかわらず、その水準以上の知的レベルを以って鑑賞すると、疑わしくなるようなものがある。

 

つまりノーランは「事実」を映像にしたかった。「事実」であれば、因果関係の正しさを検証できるからだ。

実現できるような、つまり、まさに「リアルな」映像を撮影したいのだ。

 

ここにして、ノーランの目標と、作品製作スタイルが定まる。

 

事実は、正しさを検証できる。

 

4/10

 

あるいは、ノーランは批判的視点を恐れるがゆえに、自らの映画に潜む空想性について、しばしば「映画が現実とは異なる点」に言及し、予防線を張るのだが、その予防線が「映画とは何か」という寓意の域に達し、主人公を駆動する作家すらも主人公に投影させ、ノーランのスタイルを確立するのだ。

 

 

映画・空想は往々にして「間違い」を含むが、「間違い」を指摘されるのをおそれるあまり、ノーランは自らの作品内で「映画とはこういうものだ」と予防線を張ることがある。予防線は寓意の域にまで達し、「メタ」を多用するノーランのスタイルを確立するまでに至ったっぽい。

空想的作品でありながら、作品を楽しむのにしばしば批判的思考(?)が要求される。批判的思考(?)からすると、空想的部分について懐疑的になる。

そういった懐疑性が作品を覆うと、DUNKIRK (2017) のように空想性の低い(間違いのない、少ない)映像になるし、あるいは空想性を孕む映画であれば商品の注意書きや説明書がごとく寓意が孕まれる。

 

4/11 この寓意こそ「映画作家が映画という作為を成す」という事実、主人公を駆動する黒幕たる映画作家、そして主人公と映画作家との不可分性、である。

主人公を自らと切り離したリアルな物語世界の中で自走させたいという欲求と、主人公が作家のイメージの一部であるという創作過程の真実。その葛藤。

 

ここでいう「間違い」とは、「リアルかどうか」だ。

例) どうやって空を飛ぶのか?どうやって撮影したの?空飛んでないじゃん

もしかしたら人類は(映像のように)飛べるかもしれないが、映画では実際に飛んで撮影したのではない。映画は嘘をついているし、観客を騙している。ごまかしがある。

しかし人は飛行を体感?体験?できるし、空想にイメージは漬け込む。

 

4/11 デカルトの明晰の規則に照らして「正しい」と呼べるような映像を突き詰める。

 

 

INCEPTION (2010) がわざわざ夢の世界を舞台にするのは、「夢の世界」でないと空想性、すなわち自由が保証されないからだ。

元来映画の世界こそ自由なはずだったが、観客の、そして自らの持つ批判的思考あるいは批判的な視点がが、映画の中の逃避場所として夢の世界を確保する。

もちろん夢の世界を描くこと自体に肯定的理由・積極的動機がある。それは空想性がありながらも、三半規管の機能と重力による影響など現実的視点も持ち込まれるものであり、そして並行する時間軸のあいだに発生する相互作用など、映画の構成面・スタイルにまで及ぶ。

 

 

空想世界があまりに無制限で、ドラゴンボールのような(能力)インフレしかもたらさない(単調増加しか許さない?)のは問題点として指摘されそう

というわけで、totemではないけれど、空想性に現実的な視点がアンカーとして置かれるのはいいかもな、と

 

 

4.8

TENET (2020) は、Uターン構造によって、自分の格闘した相手が自分自身である/あったこと、そして「黒幕」が自分であることを知る物語である。

 

MEMENTOは「自らが犯人である」(自らの罪を知る)物語である。(自己回帰的な物語である)

自らの外部に追い求めていたもの/追い求められるが、自己そのものであるということを知る物語だ。

 

このような自己回帰的体験は、MEMENTOにおいては「時間軸の分割」と「順序の入れ替え」という手法によって行われていたが、これは本来の人間の意識の流れとは異なる体験だ。

 

意識の連続性?意識の前進性?を保ったまま、「自らが犯人である」という自己回帰的体験を行わせるのに、Uターン構造は都合がよい。

ここに物理学における「対生成・対消滅」との相性が見出される。

 

本来、主人公がその肉体と共に逆行に転ずるだけならば、主人公の肉体は2つ必要ない。「自らと格闘する」というアイデアと、Uターンにより自らが犯人(格闘の相手である)と知るうえで、対生成・対消滅というギミックが機能しそうにも思える。

 

実際には、対生成・対消滅は、本作の隠された裏づけの1つ、あるいは単なる着想、それとも本作に裏づけを与え得たアイデアとして言及されるのみである。

 

さて、TENETUターン構造によって、意識の前進性・連続性(前進的連続性?)を保ったまま、自らが犯人であることを知る自己回帰的な体験を可能とした。

 

このシームレスな逆行体験は、分割と入れ替えによる逆行(MEMENTO)と対照的である。

 

この主観的・一人称視点的体験こそ、TENETの目標であると言える。

なぜならば、主人公の見る世界そのままに観客にも映像体験をして欲しい、というアイデアこそが到達地点だからだ。それこそが本物のリアルだからだ。

このような「主人公の見る世界そのままを観客にも見て欲しい」というアイデアは、DUNKIRKにも見られる。

 

「リアルな映像」の理想型とは、「目の前で起こった出来事をそのまま撮影すること」を意味する。それこそが真実であり、「正しい」からだ。

 

 

 

「リアルな映像」を貫徹し、自らが犯人と知る体験は、ネタバレにおけるセリフや回想の排除、現在形の徹底であり、徹底した映像主義である。文字情報による伝達の排除、「動き」による伝達、無言の伝達だ。

徹底的に「リアル」であるならば、自らが被害者(受動的)でもあり、加害者でもなければならない。そのような冗談のような不条理を「正しさ」として提示する。

 

正しさとは事実そのもの

現実そのもの

体験そのもの

証拠

 

言葉と現実の分離

物質と言葉の分離

記号的

 

 

 

方法的懐疑によって、夢(イメージ、映画)を分析すること。人がいかにして騙され、無知であるか、無知に漬け込んだ映画が作用するのかをわかったうえで、夢に浸ること。

 

 

4.8-10 記

6.16 修正

6.16/2023 -その2 映画『インターステラー』考

Interstellar (2014) 考

 

Interstellar (2014)は、「未知の存在に導かれて宇宙へ向かった主人公が、『未知の存在』の正体が、実は自分自身と、そして未来の人類 (私たち、us) であることを知る」という物語である。

 

ここで、未知の存在の正体を知らない主人公のことを「無知状態」、未知の存在の正体を知った主人公のことを「----」と呼ぶことにしよう。

Interstellar の場合、主人公が無知から(----)へと転ずる瞬間を、観客も共有する。

主人公が無知状態から(---)へと転ずるのと同時に、観客もまた無知から(---)へと転ずる。

 

「未知の存在の正体は何か」ということに関して言えば、主人公と観客とのあいだに知識の量ないし情報量の差が発生していない。このことに注意したい。

主人公が無知であるあいだは観客も無知であるし、主人公が(---)に転ずれば観客も同時に(----)へと転ずる。

 

Interstellar の場合、主人公と観客とのあいだに知識の差は存在しないが、これと対照的なのが、古代ギリシャのような、典型的な悲喜劇だ。

悲喜劇のばあい、主人公(登場人物)と観客とのあいだには知識の差が存在する。

観客のほうが、与えられた情報量が多く、登場人物は無知だ。それゆえに情報の錯綜が発生していることが観客はわかるので、悲喜劇性をより強く、わかりやすく感じることができる。

 

このような「情報量の差」に注目し、「観客が誰の視点に立っているか」、ということを考えると、Interstellar の観客は主人公の視点に立つ。対して、古典ギリシャをはじめとする悲喜劇のばあい、観客が立つ視点は、主人公のものではなく、むしろ神の視点、あるいは作者の視点に立つものが多い。

ここで、カメラが主人公に張り付くことと、観客が主人公の視点に立っていることは、異なる。

 

演劇や映画というものを、作者が行う人形遊び・玩具遊びのようなものに例えるならば、古代ギリシャのような悲喜劇は、観客は作者の視点に立って人形で遊ぶ側にあるが、Interstellar においては、作者が観客をも人形の視点に立たせようとしている。あるいはカメラを、主人公の目にして、観客の目たらしめようと試みている。

 

Interstellar のように、観客と主人公のあいだに情報量の差異をもたらさず、主人公と観客とを無知から(----)へと同時に転ずる映画は、20世紀後半から盛んな「メタ体験」系SFや、「ネタバレ」系・「どんでん返し」系の作品に多い。

 

 

さて、Interstellar においては、観客と主人公とが同時に「無知状態」から「(状態X)」へと転ずることを述べたが、映画を制作する映画作家はつねに全知全能の状態にあることに注目したい。作家は、無知な状態と(---)とを同時に有している。

Interstellar やTENET (2020) の持つUターン構造は、無知状態の主人公と、(状態X)にある主人公とを同時に映しだす。この構図を(Y)と呼びたいが、映画作家は、観客と主人公とが無知状態で出発した時にはすでに、この(Y)がやってくることを知っている。(Y)を後出しすることを意識しながら、観客と主人公とを無知状態から出発させるのだ。

 

映画作家は、構図(Y)を作り、観客と主人公とが無知から(状態X)へと転ずるメタ体験をさせるために、観客と主人公をあえて無知状態から出発させなければならない。無知状態を作らなければならない。

無知から(状態X)への情報格差を発生させるために、無知を作らなければならない。観客へ与える情報量を調節し、整えなければならない。

 

ここに、映画を制作することに伴う作為性がある。映画作家とは作為をおこなう仕事であり、映画作家は自らの仕事に発生する作為をつねに感じている。

 

それでは、映画を作ることが伴うこの作為性を、映画作家自身が開示している、と考えたらどうだろうか。

 

映画作家は、ストーリーに矛盾が発生しないよう、整合性を保ったり、登場人物の行動の合理性を保ったりする。映画に「間違い」がないようにする。(これもしばしば、後付けの理由や非本質的な設定の導入を伴うという意味で作為のある作業だ。)

そのために作家は自己批判的態度を身につけることがあるけれども、先述したとおり、映画制作に伴う作為性だけは拭うことができない。もしも何かを正さねばならないなら、映画に合理性をもたらそうとするその作為性そのものを正すべきだからだ。

自己批判態度のない作家や映画だって存在する。観客に、批判的態度を要求しない。

 

映画・物語は、自ら作り出した問題を自ら解決する自己葛藤だ。自ら敵を作り出し、存在しない問題をあえて設定し、自ら倒す。

Interstellar の場合、自らが自らを駆動するというストーリーは、「映画制作の作為性」の寓意 (アレゴリーだ。

 

 

主人公を駆動するのは、作家たる私に他ならない。主人公は自走しない。

主人公の一人称視点を共有することで、私は自己批判的態度を徹底し、主人公の世界の中にあるかのように映画を正しくするが、主人公世界にいる私を動かしているのも、世界の外の私に他ならない。

ならば、「私を動かす私(世界の外の私,現実の私)」を、映画の中に入れ込んでみてはどうか。

Interstellar TENET  Uターン構造が登場するのは、この「主人公世界にあって映画世界を正す私」と「私を動かす私」をつなぐためだ。

主人公世界 (想像界と、「書く私」(現実界)とでは階層が異なる。この階層の差異が、メタ体験として提示される。Uターン構造は、劇中の主人公と、現実世界との私とのあいだで発生するメタ体験だ。私はこの瞬間に、劇中から現実世界へと浮遊する。

INCEPTION (2010) は、劇中劇がスクリーンの内部にあることと、スクリーンを眺める私の姿を見て、スクリーンには登場しない作者(イマジナリーな作者の姿を思い浮かべる、そんなメタ体験であった。

Interstellar TENETでは、作者は主人公として映画の中に入れ込まれ、徹底した主観視点により「私」と重ね合わせられることによって、劇中体験として、作品と現実のあいだのメタ体験が試みられている

 

 

 

私の中での作話と、行動する私。Memento (2000)にその原点がある。

 

想像の世界と、あまりに現実的な視点。自己批判的で、「それは実現し得るのか」という視点。両者を同時に備える存在として、作家がいる。

 

 

【まとめ】「人形遊びをする私」(作者)と、「人形になった私」(登場人物)を同時に物語に入れ込むノーラン作品のなかで、Uターン構造が観客におこなわせるのは、「『人形である私』が『人形を操る私』の存在を知る」、シームレスなメタ体験だ。

創作を行う者でありながら現実的な視点を強く持つ男が、「物語の作為性=物語をつくる自らのすがた」を寓意的に作品に入れ込むことによって、事実主義に立ちながらも物語を創造している。

 

4.3 記

6.16 修正

6.17/2023 映画 TENET (2020) とC.ノーラン概論

映画 TENET (2020) は、全体で1つのU字構造・Uターン構造を形成する。

ノーランの過去作品を振り返ると、同様のU字構造を、Memento (2000)もまた有している。

 

TENET の主人公は、時間を逆行する過程で自分自身を目撃する。

このような「自分自身を目撃する」というストーリーの展開は、ノーランの過去作品の中ではすでに Interstellar (2014) においても行われている。

この意味で Interstellar もまた、U字構造を有する作品であると言える。

またDUNKIRK (2017) の視聴者は、視点のスイッチによって「先ほどまで自分だった登場人物」を目撃する。

DUNKIRK には主要な登場人物が複数人いるが、視聴者はカメラの切り替えによってそれぞれの人物に没入する。

「同じ出来事」を、複数の登場人物からの視点において体験することにより、「先ほどまで自分だった姿」を目撃することになるのである。

したがって、DUNKIRK もまた、ある意味で(観客が)「自分を目撃する」作品の1つであると言える。

 

こうして見ると、ノーランのフィルモグラフィにおける3作品、Interstellar (2014),  DUNKIRK (2017),  TENET (2020) が、連続して「自分自身を目撃する」映画として製作されていることがわかる。

 

 

考察① メタ体験

考察② 「自分で自分を駆動する主人公」に、映画作家自身の姿が投影されている。主人公も、それを駆動する主人公もまた「私=映画作家」であり、「私という映画作家」の内面的な葛藤として映画が、ストーリーが、作為的にセッティングされてることの寓意である。「主人公とそれを駆動する主人公が、映画作家という私である」という解釈から、「物語ることの寓意 (アレゴリー) 」が浮かび上がる。

 

INCEPTION (2010) において、映像作家の姿は、作品外に浮かび上がる、目の見えない姿であった。

これを推し進めて、Interstellar, DUNKIRK, TENET においては、映像作家の投影が具体的な姿を持って登場している。これにより、寓意として作品が成立しているのかもしれない。

 

「主人公を駆動しているのが主人公自身である」ことの開示は、「映画作家の内面的葛藤」という物語の原型の1つを再確認する。

人形を操る神の手。神自身が、主人公に投影されて映画の中に登場する。

この時、映画の持つ作為性、映画を作るということの作為性(映画のセッティングという作為性)が明らかになる。

 

このことは、「物語ること」の寓意であった Memento、そして映画の作為性を無視する/無知状態の観客のありさまを提示する The Prestige (2006) へも、思いを馳せさせる。

純粋悪としてジョーカーが登場するThe Dark Knight (2008) もまた、バットマンとジョーカーという永遠の対立構造が、物語を享受する者たちの求める葛藤であることを再確認させる。彼らが求めるから、2人は戦うのであって、そこに合理的/な功利的な理由や大義などない。

ジョーカーが「嘘」を用いてバットマンや群衆を誘導し、観客を騙すのは、そこに作家の意図があるからだ。

ジョーカーはまた、作家という神の投影された姿である。彼にこそ、物語る人間の腕が、人形劇作家の操り糸が太くつながっている。

 

4/2 記

6/15 修正