6.16/2023 -その3 Memento(2000)→TENET(2020)

映画 Memento (2000)は、映像外で行われがちな「説明」を映像内に収め、映像内で完結させる試みであった。

 

因果関係の時系列の連鎖を分割し、順序を逆転することによって、既存のミステリー作品の構成を踏襲し、結果から原因へとさかのぼった。一方で、観客は単に映画を時系列順に並び替えることによって、原因から結果まで因果関係の説明が完結する。(事実の羅列となる)

 

  • 単なる事実の羅列とならぬよう、因果関係を逆転させることによって、結果から原因を探求する既存のミステリ作品(サスペンス?)との整合性を持ち、「真相の開示」という娯楽を提供する。(時間軸の細かい分割により、この「真相の開示」が短い間隔で出現することが、Memento の娯楽的価値をより高める)

 

 

このような、「因果関係の分割と入れ替えの手法」の意図は、既存のミステリー作品に不備があるからだ。

一般的なミステリー作品は、結果から原因へとさかのぼる構造をしている。なぜならば、「原因」という謎を残すことによって、原因を探究する過程を娯楽として提供したり、原因そのものの斬新さを競うからだ。

しかし、原因(犯人、真相、動機、犯行の手口やトリックなど)が明かされたあと、結果から原因までを再構成する作業は、視聴者に委ねられがちだ。映像によって現在形で(リアルに)示されることがない。そのため、作品の「正しさ」を吟味する作業を視聴者が行うことができない。

 

既存のミステリ作品においては、因果関係における原因が明かされたとしても、原因から結果へ至るプロセスが明示的に映像によって示されることがない。そのため、デカルト的な「分析・総合」の作業ができない。数学の証明を吟味するようにして原因から結果までの合理性をたしかめることができないのだ。

ミステリ作品=謎の提示。捜査過程における推測。真相の開示によって、謎=結果へ至るまでの因果関係を構築する。正しさを吟味する。合理性など。

 

デカルトによる「分析・総合の規則」:

 

一:明晰の規則。自分が明証的に真理であると認めたもので、いかなる疑う理由もないほど精神に明晰判明にあらわれるもの以外は、真理として受け入れないこと。
二:分析の規則。検討する問題をできるだけ小さな部分に分ける
三:総合の規則。それらの内もっとも単純で認識しやすいものから段階的にもっとも複雑なものへと順序立てて考える
四:枚挙の規則。見落としがないように一つひとつ数え上げて完全に枚挙し、全体を見渡す。

 

デカルト方法序説』より)

 

 

デカルトの「方法」が参考にしているのはおそらく数学的証明であり、公理体系のような知識の体系、つまり確実な公理から定理を導き出すことで成り立つ「確実な知識の集積」を獲得することを理想としている。

 

ノーランの思考法の基礎には、デカルト的な、あるいは数学の証明のような、「分析と総合」の発想に基づいて視聴者が吟味できるような映像の提供を行うという発想がある。

 

デカルトの「方法」に従えば、映画という「嘘」は容易に否定されて終わりそうに思える。

なぜならば、ある命題を偽として否定するように、映画が映し出す映像は「現実では起こり得ない」。すなわち幻想や空想、妄想であることがほとんどだからだ。

 

4.11 人は映画が実現できないことを知っているからだ。

 

(映像の言語化・命題化→TENETいう不可能図形。つまり命題化不能性)

 

6.19 また、数学でいうところの「仮定」の個数が必要最小限であることも、映画をより「現実的」なものにすることに役立つだろう。

 

しかし、ノーランが単に「映画は嘘だ」と否定して終わることはない。

むしろ、映画を「イメージ」や「夢」(あるいは観客の無知につけ込んで騙す幻影)として認めながらも「映画(映像)が観客を騙す」という事実を起点にし、「映画とは何か/どのようなものか」を分析し、得られた事実を「確かなもの」として残そうとしている。

それゆえ、ノーランは映画の中に「映画そのもの」をメタファーにして入れ込む。「映画とは何か」「映画と現実の違いは何か」について言及したり、観客の無知を批判したりする。彼の興味の射程はまた、「映画がいかにしてつくられるのか」、すなわち映画と作家の関係や、「作家の意識する映画がいかにして観客に提供されるか」にまで及ぶ。

 

ノーランは厳しい「現実的な視点」を持ちながらも、映画の持つ「夢」の部分/空想的な部分を諦めていない。観客になお空想/夢想を提示するのにはそんな理由がある。

 

ノーランの映画作りは、以下のような目的意識のもとで行われている:まず一度映画というものを「嘘」として疑わせる/疑う。次に「映画が観客を騙している」ことを事実として提示する。そして映画や、映画を鑑賞する(映画が鑑賞者にどのように働きかけているか/映画が鑑賞者の内側に何を起こしているか)という現象を、(半ば科学的、あるいは哲学的に)分析・考察し、その結果を隠喩やセリフといった形で作品の中に折り込み、観客を啓蒙するのだ。

 

夢想家に向けて映画を作りながらも、ノーランは夢想を無知として批判し、しかし夢想が成立する映画体験を確かな事実としてその知識を提供するのである。

 

 

空想的側面を持つ作品を提供しながらも、ノーランは「懐疑と、確かな知を得る」という態度を基盤とする作家である。彼は観客の持つ知性に信頼を置き、またある時には知的態度を要求し、またあるいは知性を引き揚げることを期待する。

 

観客や作家自身の「無知」「夢想」「空想」だけに漬け込んだ古い映画に「現実」という視点をもたらし、映画の転換を図るのが、映画作家としての彼だ。

 

懐疑と「確実な知識を得る」態度で鑑賞することによって、表面上は空想的なノーラン作品の奥に知識が見えてくる。

 

 

 

サスペンス(英: suspense、羅: suspēnsus)は、ある状況に対して不安緊張を抱いた不安定な心理、またそのような心理状態が続く様を描いた作品をいう。シリアススリラー(サイコスリラー)、ホラーサイコロジカルホラー)、アクションものといった物語の中で重要な位置を占める。単純に「観客の心を宙吊りにする」という意味でズボンサスペンダーを語源だとする説明もある。

 

 

 

さて、MEMENTOという「分割」と「順序の入れ替え」という手法が、既存のサスペンス・ミステリー作品に対する不満を解消するために提案されたことを述べた。その不満とは何か。既存作品は最後に「真相」を明かすけれども、疑わしいということ。すなわち実現性に乏しいということだ。既存作品には、デカルト的懐疑に基づいて「正しさ」の吟味できるような因果関係の説明が含まれていない、ということだ。

物語のトリックは実際に可能なのだろうか。物語は、鑑賞者に対してある程度以上の知的レベルを要求するにもかかわらず、その水準以上の知的レベルを以って鑑賞すると、疑わしくなるようなものがある。

 

つまりノーランは「事実」を映像にしたかった。「事実」であれば、因果関係の正しさを検証できるからだ。

実現できるような、つまり、まさに「リアルな」映像を撮影したいのだ。

 

ここにして、ノーランの目標と、作品製作スタイルが定まる。

 

事実は、正しさを検証できる。

 

4/10

 

あるいは、ノーランは批判的視点を恐れるがゆえに、自らの映画に潜む空想性について、しばしば「映画が現実とは異なる点」に言及し、予防線を張るのだが、その予防線が「映画とは何か」という寓意の域に達し、主人公を駆動する作家すらも主人公に投影させ、ノーランのスタイルを確立するのだ。

 

 

映画・空想は往々にして「間違い」を含むが、「間違い」を指摘されるのをおそれるあまり、ノーランは自らの作品内で「映画とはこういうものだ」と予防線を張ることがある。予防線は寓意の域にまで達し、「メタ」を多用するノーランのスタイルを確立するまでに至ったっぽい。

空想的作品でありながら、作品を楽しむのにしばしば批判的思考(?)が要求される。批判的思考(?)からすると、空想的部分について懐疑的になる。

そういった懐疑性が作品を覆うと、DUNKIRK (2017) のように空想性の低い(間違いのない、少ない)映像になるし、あるいは空想性を孕む映画であれば商品の注意書きや説明書がごとく寓意が孕まれる。

 

4/11 この寓意こそ「映画作家が映画という作為を成す」という事実、主人公を駆動する黒幕たる映画作家、そして主人公と映画作家との不可分性、である。

主人公を自らと切り離したリアルな物語世界の中で自走させたいという欲求と、主人公が作家のイメージの一部であるという創作過程の真実。その葛藤。

 

ここでいう「間違い」とは、「リアルかどうか」だ。

例) どうやって空を飛ぶのか?どうやって撮影したの?空飛んでないじゃん

もしかしたら人類は(映像のように)飛べるかもしれないが、映画では実際に飛んで撮影したのではない。映画は嘘をついているし、観客を騙している。ごまかしがある。

しかし人は飛行を体感?体験?できるし、空想にイメージは漬け込む。

 

4/11 デカルトの明晰の規則に照らして「正しい」と呼べるような映像を突き詰める。

 

 

INCEPTION (2010) がわざわざ夢の世界を舞台にするのは、「夢の世界」でないと空想性、すなわち自由が保証されないからだ。

元来映画の世界こそ自由なはずだったが、観客の、そして自らの持つ批判的思考あるいは批判的な視点がが、映画の中の逃避場所として夢の世界を確保する。

もちろん夢の世界を描くこと自体に肯定的理由・積極的動機がある。それは空想性がありながらも、三半規管の機能と重力による影響など現実的視点も持ち込まれるものであり、そして並行する時間軸のあいだに発生する相互作用など、映画の構成面・スタイルにまで及ぶ。

 

 

空想世界があまりに無制限で、ドラゴンボールのような(能力)インフレしかもたらさない(単調増加しか許さない?)のは問題点として指摘されそう

というわけで、totemではないけれど、空想性に現実的な視点がアンカーとして置かれるのはいいかもな、と

 

 

4.8

TENET (2020) は、Uターン構造によって、自分の格闘した相手が自分自身である/あったこと、そして「黒幕」が自分であることを知る物語である。

 

MEMENTOは「自らが犯人である」(自らの罪を知る)物語である。(自己回帰的な物語である)

自らの外部に追い求めていたもの/追い求められるが、自己そのものであるということを知る物語だ。

 

このような自己回帰的体験は、MEMENTOにおいては「時間軸の分割」と「順序の入れ替え」という手法によって行われていたが、これは本来の人間の意識の流れとは異なる体験だ。

 

意識の連続性?意識の前進性?を保ったまま、「自らが犯人である」という自己回帰的体験を行わせるのに、Uターン構造は都合がよい。

ここに物理学における「対生成・対消滅」との相性が見出される。

 

本来、主人公がその肉体と共に逆行に転ずるだけならば、主人公の肉体は2つ必要ない。「自らと格闘する」というアイデアと、Uターンにより自らが犯人(格闘の相手である)と知るうえで、対生成・対消滅というギミックが機能しそうにも思える。

 

実際には、対生成・対消滅は、本作の隠された裏づけの1つ、あるいは単なる着想、それとも本作に裏づけを与え得たアイデアとして言及されるのみである。

 

さて、TENETUターン構造によって、意識の前進性・連続性(前進的連続性?)を保ったまま、自らが犯人であることを知る自己回帰的な体験を可能とした。

 

このシームレスな逆行体験は、分割と入れ替えによる逆行(MEMENTO)と対照的である。

 

この主観的・一人称視点的体験こそ、TENETの目標であると言える。

なぜならば、主人公の見る世界そのままに観客にも映像体験をして欲しい、というアイデアこそが到達地点だからだ。それこそが本物のリアルだからだ。

このような「主人公の見る世界そのままを観客にも見て欲しい」というアイデアは、DUNKIRKにも見られる。

 

「リアルな映像」の理想型とは、「目の前で起こった出来事をそのまま撮影すること」を意味する。それこそが真実であり、「正しい」からだ。

 

 

 

「リアルな映像」を貫徹し、自らが犯人と知る体験は、ネタバレにおけるセリフや回想の排除、現在形の徹底であり、徹底した映像主義である。文字情報による伝達の排除、「動き」による伝達、無言の伝達だ。

徹底的に「リアル」であるならば、自らが被害者(受動的)でもあり、加害者でもなければならない。そのような冗談のような不条理を「正しさ」として提示する。

 

正しさとは事実そのもの

現実そのもの

体験そのもの

証拠

 

言葉と現実の分離

物質と言葉の分離

記号的

 

 

 

方法的懐疑によって、夢(イメージ、映画)を分析すること。人がいかにして騙され、無知であるか、無知に漬け込んだ映画が作用するのかをわかったうえで、夢に浸ること。

 

 

4.8-10 記

6.16 修正