6.16/2023 -その2 映画『インターステラー』考

Interstellar (2014) 考

 

Interstellar (2014)は、「未知の存在に導かれて宇宙へ向かった主人公が、『未知の存在』の正体が、実は自分自身と、そして未来の人類 (私たち、us) であることを知る」という物語である。

 

ここで、未知の存在の正体を知らない主人公のことを「無知状態」、未知の存在の正体を知った主人公のことを「----」と呼ぶことにしよう。

Interstellar の場合、主人公が無知から(----)へと転ずる瞬間を、観客も共有する。

主人公が無知状態から(---)へと転ずるのと同時に、観客もまた無知から(---)へと転ずる。

 

「未知の存在の正体は何か」ということに関して言えば、主人公と観客とのあいだに知識の量ないし情報量の差が発生していない。このことに注意したい。

主人公が無知であるあいだは観客も無知であるし、主人公が(---)に転ずれば観客も同時に(----)へと転ずる。

 

Interstellar の場合、主人公と観客とのあいだに知識の差は存在しないが、これと対照的なのが、古代ギリシャのような、典型的な悲喜劇だ。

悲喜劇のばあい、主人公(登場人物)と観客とのあいだには知識の差が存在する。

観客のほうが、与えられた情報量が多く、登場人物は無知だ。それゆえに情報の錯綜が発生していることが観客はわかるので、悲喜劇性をより強く、わかりやすく感じることができる。

 

このような「情報量の差」に注目し、「観客が誰の視点に立っているか」、ということを考えると、Interstellar の観客は主人公の視点に立つ。対して、古典ギリシャをはじめとする悲喜劇のばあい、観客が立つ視点は、主人公のものではなく、むしろ神の視点、あるいは作者の視点に立つものが多い。

ここで、カメラが主人公に張り付くことと、観客が主人公の視点に立っていることは、異なる。

 

演劇や映画というものを、作者が行う人形遊び・玩具遊びのようなものに例えるならば、古代ギリシャのような悲喜劇は、観客は作者の視点に立って人形で遊ぶ側にあるが、Interstellar においては、作者が観客をも人形の視点に立たせようとしている。あるいはカメラを、主人公の目にして、観客の目たらしめようと試みている。

 

Interstellar のように、観客と主人公のあいだに情報量の差異をもたらさず、主人公と観客とを無知から(----)へと同時に転ずる映画は、20世紀後半から盛んな「メタ体験」系SFや、「ネタバレ」系・「どんでん返し」系の作品に多い。

 

 

さて、Interstellar においては、観客と主人公とが同時に「無知状態」から「(状態X)」へと転ずることを述べたが、映画を制作する映画作家はつねに全知全能の状態にあることに注目したい。作家は、無知な状態と(---)とを同時に有している。

Interstellar やTENET (2020) の持つUターン構造は、無知状態の主人公と、(状態X)にある主人公とを同時に映しだす。この構図を(Y)と呼びたいが、映画作家は、観客と主人公とが無知状態で出発した時にはすでに、この(Y)がやってくることを知っている。(Y)を後出しすることを意識しながら、観客と主人公とを無知状態から出発させるのだ。

 

映画作家は、構図(Y)を作り、観客と主人公とが無知から(状態X)へと転ずるメタ体験をさせるために、観客と主人公をあえて無知状態から出発させなければならない。無知状態を作らなければならない。

無知から(状態X)への情報格差を発生させるために、無知を作らなければならない。観客へ与える情報量を調節し、整えなければならない。

 

ここに、映画を制作することに伴う作為性がある。映画作家とは作為をおこなう仕事であり、映画作家は自らの仕事に発生する作為をつねに感じている。

 

それでは、映画を作ることが伴うこの作為性を、映画作家自身が開示している、と考えたらどうだろうか。

 

映画作家は、ストーリーに矛盾が発生しないよう、整合性を保ったり、登場人物の行動の合理性を保ったりする。映画に「間違い」がないようにする。(これもしばしば、後付けの理由や非本質的な設定の導入を伴うという意味で作為のある作業だ。)

そのために作家は自己批判的態度を身につけることがあるけれども、先述したとおり、映画制作に伴う作為性だけは拭うことができない。もしも何かを正さねばならないなら、映画に合理性をもたらそうとするその作為性そのものを正すべきだからだ。

自己批判態度のない作家や映画だって存在する。観客に、批判的態度を要求しない。

 

映画・物語は、自ら作り出した問題を自ら解決する自己葛藤だ。自ら敵を作り出し、存在しない問題をあえて設定し、自ら倒す。

Interstellar の場合、自らが自らを駆動するというストーリーは、「映画制作の作為性」の寓意 (アレゴリーだ。

 

 

主人公を駆動するのは、作家たる私に他ならない。主人公は自走しない。

主人公の一人称視点を共有することで、私は自己批判的態度を徹底し、主人公の世界の中にあるかのように映画を正しくするが、主人公世界にいる私を動かしているのも、世界の外の私に他ならない。

ならば、「私を動かす私(世界の外の私,現実の私)」を、映画の中に入れ込んでみてはどうか。

Interstellar TENET  Uターン構造が登場するのは、この「主人公世界にあって映画世界を正す私」と「私を動かす私」をつなぐためだ。

主人公世界 (想像界と、「書く私」(現実界)とでは階層が異なる。この階層の差異が、メタ体験として提示される。Uターン構造は、劇中の主人公と、現実世界との私とのあいだで発生するメタ体験だ。私はこの瞬間に、劇中から現実世界へと浮遊する。

INCEPTION (2010) は、劇中劇がスクリーンの内部にあることと、スクリーンを眺める私の姿を見て、スクリーンには登場しない作者(イマジナリーな作者の姿を思い浮かべる、そんなメタ体験であった。

Interstellar TENETでは、作者は主人公として映画の中に入れ込まれ、徹底した主観視点により「私」と重ね合わせられることによって、劇中体験として、作品と現実のあいだのメタ体験が試みられている

 

 

 

私の中での作話と、行動する私。Memento (2000)にその原点がある。

 

想像の世界と、あまりに現実的な視点。自己批判的で、「それは実現し得るのか」という視点。両者を同時に備える存在として、作家がいる。

 

 

【まとめ】「人形遊びをする私」(作者)と、「人形になった私」(登場人物)を同時に物語に入れ込むノーラン作品のなかで、Uターン構造が観客におこなわせるのは、「『人形である私』が『人形を操る私』の存在を知る」、シームレスなメタ体験だ。

創作を行う者でありながら現実的な視点を強く持つ男が、「物語の作為性=物語をつくる自らのすがた」を寓意的に作品に入れ込むことによって、事実主義に立ちながらも物語を創造している。

 

4.3 記

6.16 修正