6.17/2023 映画 TENET (2020) とC.ノーラン概論

映画 TENET (2020) は、全体で1つのU字構造・Uターン構造を形成する。

ノーランの過去作品を振り返ると、同様のU字構造を、Memento (2000)もまた有している。

 

TENET の主人公は、時間を逆行する過程で自分自身を目撃する。

このような「自分自身を目撃する」というストーリーの展開は、ノーランの過去作品の中ではすでに Interstellar (2014) においても行われている。

この意味で Interstellar もまた、U字構造を有する作品であると言える。

またDUNKIRK (2017) の視聴者は、視点のスイッチによって「先ほどまで自分だった登場人物」を目撃する。

DUNKIRK には主要な登場人物が複数人いるが、視聴者はカメラの切り替えによってそれぞれの人物に没入する。

「同じ出来事」を、複数の登場人物からの視点において体験することにより、「先ほどまで自分だった姿」を目撃することになるのである。

したがって、DUNKIRK もまた、ある意味で(観客が)「自分を目撃する」作品の1つであると言える。

 

こうして見ると、ノーランのフィルモグラフィにおける3作品、Interstellar (2014),  DUNKIRK (2017),  TENET (2020) が、連続して「自分自身を目撃する」映画として製作されていることがわかる。

 

 

考察① メタ体験

考察② 「自分で自分を駆動する主人公」に、映画作家自身の姿が投影されている。主人公も、それを駆動する主人公もまた「私=映画作家」であり、「私という映画作家」の内面的な葛藤として映画が、ストーリーが、作為的にセッティングされてることの寓意である。「主人公とそれを駆動する主人公が、映画作家という私である」という解釈から、「物語ることの寓意 (アレゴリー) 」が浮かび上がる。

 

INCEPTION (2010) において、映像作家の姿は、作品外に浮かび上がる、目の見えない姿であった。

これを推し進めて、Interstellar, DUNKIRK, TENET においては、映像作家の投影が具体的な姿を持って登場している。これにより、寓意として作品が成立しているのかもしれない。

 

「主人公を駆動しているのが主人公自身である」ことの開示は、「映画作家の内面的葛藤」という物語の原型の1つを再確認する。

人形を操る神の手。神自身が、主人公に投影されて映画の中に登場する。

この時、映画の持つ作為性、映画を作るということの作為性(映画のセッティングという作為性)が明らかになる。

 

このことは、「物語ること」の寓意であった Memento、そして映画の作為性を無視する/無知状態の観客のありさまを提示する The Prestige (2006) へも、思いを馳せさせる。

純粋悪としてジョーカーが登場するThe Dark Knight (2008) もまた、バットマンとジョーカーという永遠の対立構造が、物語を享受する者たちの求める葛藤であることを再確認させる。彼らが求めるから、2人は戦うのであって、そこに合理的/な功利的な理由や大義などない。

ジョーカーが「嘘」を用いてバットマンや群衆を誘導し、観客を騙すのは、そこに作家の意図があるからだ。

ジョーカーはまた、作家という神の投影された姿である。彼にこそ、物語る人間の腕が、人形劇作家の操り糸が太くつながっている。

 

4/2 記

6/15 修正