5.18/2023

物語の主人公が冒険の旅に出るのは、我々の心が、日常生活の外にある特別な何かを求めるからだ。冒険の旅に出る登場人物と共に、我々も旅に出る。物語内部で完結した動機や理由、目的から旅に出るばあいもあるが、主人公を動かしているのは作者、ないし我々だと言える。(動機や理由があったとしても、それを設定しているのは畢竟、作者である)

物語の世界に入る時、我々の心は主人公と連動しているし、読み手の心と連動した姿を作者は描くと言える。(というよりも、よく連動した主人公を描いた作品こそ名作として評価されやすい)

我々の心が求め、そう動く限り、登場人物は旅に出る。

登場人物が、現実から乖離した幻想世界や冒険・ファンタジー・SFの世界を旅するか、それとも現実世界に留まるか、決めるのは畢竟、創作を求める我々だと言える。

たいていの場合、旅に出るかどうか選択を迫られた主人公は(特にそれが物語の前半や序盤の場合)旅に出るし、観客は旅に出る選択を後押しする。たとえそれが日常生活や社会生活から逸脱すらことであっても。

特にその傾向は、現実世界の範囲・生活の範囲というものが確定していない子供や青少年に強く見られるだろう。子供は特別で優れた存在でありたいし、特別な存在たる体験を求めるからだ。自らの優れた能力を示す機会を求めているからだ。

 

需要のあるところに物語は在る。問題は需要の数、大衆に占める割合だ。(特に商業的な物語を提供する場合に)

 

 

ここで確認したいのは、物語の主人公が旅に出る動機・理由・目的が、形式上、物語世界の内部において完結している場合と、物語世界内部において完結せず/閉じておらずに我々へと開放されており、物語世界内部における理由としては説明ができない=我々が求め、そう動かしているとしか言いようがない場合の2通りがあるということだ。

なお、第一の場合において、たとえ物語世界の内部において冒険の動機・理由・目的が完結している場合であっても、動機が後付けであるか、それとも動機が(作者にとって)そうでしかあり得ないか、ということについては問わないものとする。

 

 

映画『すずめの戸締り』において、すずめを冒険の旅に誘うのは神としか言いようのない神秘的な何かだ。つまり彼女が、若い男と初対面したあと、わざわざ廃虚に戻ってまで封印を解く理由は、神秘的であるとしか言いようがない。そこに理由はなく、物語はそう誘導されているとしか言いようがない。

けれども、彼女が日本各地に起こりうる災害を未然に防ぐ旅に出る動機は、もしかしたら物語世界内部において完結したものであるかも知れない。(後述)

 

 

「6.2/2023」へと続く。