5.16/2023

視た映画

 

【概要】完璧な指揮者のターだが、わずかな綻びに目をつけられ、足元を掬われる。彼女は指揮者としての地位のみならず、部下やパートナー、子供を失うのであった。

 

 

〈TAR(ター)〉という姓が、果たして"art(芸術)"のアナグラムであるかどうかはさておき、クラシック音楽は、芸術の中でもとりわけ「他者からの評価」(=他者にどう見えるか/聴こえるか)ということを最優先する点において抜きん出ているのではないだろうか。

その意味で、クラシック音楽の公共性はきわめて高い。場/空間を共有する聴衆には文句のつけようのないほど、完璧な演奏を目指す。

 

不特定多数の人々を前にして、演奏者は自らに高いハードルを課す。

演奏者が考えることは、「自分で自分の演奏に満足するかどうか」ではない。自己を放棄して、「すべての他者が満足するかどうか」によって、自らの演奏を評価する。それが客観性だ。

 

けれども、自らへの評価をどれほど他者に委ねたところで、自らの演奏を自らで聴く以上は、自らで自らを評価するほかはない。

 

無私をきわめ、客観的評価に身を委ねるからこそ、彼女は完璧に自立/自律している。(公共の所有物)

するとかえって、時折のぞかせる私的な部分が目立ってしまう。

 

彼女は時折、公私混同を見せる。それは権力の濫用(わがまま、傲慢さ、傍若無人)だ。

若い男子学生によるSNS上の投稿(リーク)にしろ、元・教え子の自殺に関与したとする週刊誌の記事にしろ、確かに事実とは異なっているかもしれない。けれども、火のないところに煙は立たない。彼女がしばしば「私的な顔」をのぞかせてしまうがゆえ、完全性で塗り固められた彼女の綻びが見えてしまうがゆえに、「彼女はそういう人間だ」という印象がついてしまう。(彼女をそう印象付けるのがうまい映画だ)

そうなると、例えリーク(告発)が事実とは異なっていても、「彼女はそういう人間だから」と、誰も助けてはくれない。告発による失脚は不条理だが、観客もまた「彼女はそれに相当する罪は犯しているのだから」と納得してしまう。

 

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どこまでも公共のために提供されるクラシック音楽だが、それを評価する自らの感覚というものからは逃れることができない。

「美で魅了する」ことは、どこまでも他者のためでありながら、自らの感覚からは逃れられない。

 

正しく、美しい、絶対的な人物として登場し、他者からの評価を受け付けず、一方的に評価する側にあった彼女だが、やがて彼女を評価する社会/世間のほうが優位になる。そのような反転が物語の構造だ。

他者を雑音として正す側にあった彼女が、自らこそ雑音だという声を聞かされる恐怖。

 

D.ヴィルヌーヴ監督『ボーダーライン』において、正義として登場するアメリカ合衆国の内部から悪が鎌首をもたげるのにも似た感覚をもたらす。

 

無私をきわめ、どこまでも公共のもので、完璧で絶対的なものを提供する、という生き様も、結局のところ個人のエゴによってもたらされ、駆動されるものなのかもしれない。