6.11/2023
着なくなった服、聴くことのなくなった音楽、もう読まない本。
…かつて必要だった哲学・思想。
それは薬のようなものだから、治療が済んだらもう摂取のいらないのかもしれない。
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映画『バットマン・リターンズ』(1992年/ティム・バートン監督)を視た。
3~4度目だろうか。
両親に捨てられた奇形児ペンギンは、街の有力者の秘密を握り、彼の支援を得て市長選出馬を目論む。
同じく有力者の秘密を知ってしまった彼女の秘書セリーナ・カイルは、口封じのために殺されるも、猫の命を得て「キャットウーマン」として蘇る。
地下から地上へと進出する孤児。女だからと差別的待遇を受けていたセリーナ。
どちらも底辺からの脱出を試みる。
遺児として育ったバットマンことブルースは、ペンギンに共感しながらも、街で頻発する事件の首謀者として彼を調査する。
ティム・バートン版の第1作『バットマン』(1989)では、ブルースが両親を失った過去は描かれながらも、彼がバットマンとなる過程は描写されなかった。
それはコミックなどによって周知の事実でもあるし、「正義のため」という建前は広く一般に理解されやすい動機であるから省略がちだけれども、その過程をノーラン版『バットマン・ビギンズ』(2005)は丁寧に段階を踏んで密に描写した。
それに比べると、『リターンズ』におけるセリーナからキャットウーマンへの変貌は、その心理的背景からコスチュームの制作まで、『ビギンズ』には及ばずとも真摯に描写されているように感じる。
DCコミックはMARVELと並ぶ米コミック出版社のに2大巨人であり、スーパーマンと並ぶ最古参かつ筆頭格だけあって(そして第1作がヒット・成功したであろうことも受けて)、制作費は豊富にあったようで、セットや美術・衣装・ガジェットに投入される予算の潤沢さが伺われる。
ノーラン版にも言えることだが、『バットマン』『バットマン・リターンズ』ともに架空の街ゴッサムシティの作り込みによって街全体というものがイメージされ、さらに公共性 ー新聞屋テレビなどのマスメディアや市・警察といった公的機関が必ず描かれる。そしてメディアを利用しようとする登場人物がおり、メディアに踊らされる市民、一般大衆が仮想される。
ノーラン版の第2作『ダークナイト』(2008)では、ジョーカーが市民を踊らせるのだが、ここに「劇中でメディアを利用するジョーカー」と「劇によって心を踊らされる観客」がおり、作り手は「劇中の人々の操作」と「劇を視る人々の心理操作」という二重の心理操作を行うことになる。
ここに発生する入れ子構造は、Doodlebug (1997)にてノーランが描いたおそらく彼のテーマであり、そして『インセプション』(2010)にも通ずる、作家的な手法でもある。
( (劇中における人々の情動) 観客の情動) ←作家による操作
作家は、登場人物を操作して作中における大衆の反応を結果として想像しながら、作品を見る観客の反応も待つ、ということ。
さて、『リターンズ』では、同じ孤児/遺児でありながらも、子供の誘拐へ走るペンギンと、子供を守ろうとするバットマンで明暗が分かれるのだが、子供向けのお伽話として描かれた童話にとって必要なヒーロー像を提供しているとはいえ、バットマンが正義でいられるのは彼が裕福な生まれだからという感を拭えない。
その点を明確にし、矯正してくれるのがノーラン版『ダークナイト・ライジング』(2012)だろうか。
[追記] アクションシーン -バットマンというマニッシュな主人公を中心とした- が、さほど多くはない印象のある今作だが、クリスマスを舞台に、視覚的な幻想性と児童絵本らしさにティム・バートンの作家性がよく出ており、ヴィランの悲哀を丁寧にえがいている。
「遺児としての孤独」「動物というモチーフ」という共通点を持ちながら、その貧富の差によって善悪が分かれてしまったバットマンとペンギンであるが、今作における第三のヴィランとも言える大企業の社長もまた、子を思う一面を見せながらも、悪行に走ってしまう。同じ富裕層でありながらも、その権力の使い道が分かれるという点で、この社長とバットマン(ブルース)とは対照的であるのかもしれないが、ブルースの経営者としての側面が描写されていないので、比較としては不足である。
ペンギン、セリーナ、そして社長と、いずれもその凶行の動機に納得のいく理由があるだけに、今作はバットマンの影が薄く、またアクションシーンがとも、コンセプト面で、「人形遊び」の発展型としての、キャラクターを対立させる映画の楽しさがある。
メモ:猫は自立する
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子供の頃、楽しかった映画。今ではつまらないと感じる映画。
供給によって満たされる需要があったということ。基盤になった映画。
今必要なもの。かつて必要だったもの。