6.6/2023 -その2
東京に来ると、20階建てを超える高層ビルは何百本と立っているように思えるけど、地元盛岡では「マリオス」という20階建・約100mの、この30年のあいだに完成したビルが最長だった。(1997年完成・地上92m)
大して自慢できるビルでもないし、誇れるものといえば他に岩手山があったから、別にマリオスを眺めることはなんら心を動かす体験ではなかった。
けれども高校当時に仲のよかった子の家の、部屋の窓から、日が暮れたあと、ポツポツと灯りの点ったマリオスと周辺のビルを眺めることは、わずかに感傷をもたらす習慣だった。
実家というものは自分の心のなかで真っ暗な存在だったし、友達の家は実家から遠くて帰るのがとても面倒だったから、ずっとベッドにへばりついていたかった。
アメリカのドラマを見ていると、気軽に「今日は◯◯の家に泊まるよ」というやり取りがあって、今思うととても羨ましい。
高校を基準として、その友達の家は実家と反対方向にあったし、自転車でも10km以上はあり、特に帰り道はほとんど登り坂だった。
いくつかの情報を伏せている。
ー5/23のメモより.池袋,新宿ー都心の高層ビル群を眺めながら.散策中に
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先日鑑賞した『TAR/ター』に親しみを覚えたのは、「ここが自分の生きていた世界」だと感じたからだろうか。母が音楽家で、自宅ではよく来客があって重奏の練習をしていたし、演奏会場の楽屋に出入りすることもよくあった。
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知人が妊娠した。
か細い彼女だから、母子の健康が心配になる。
どんな思いで、妊娠・出産・育児を決めたのだろうか。
どんな願いを子供に託すのだろう。
彼女がこの世界で子育てをするのかどうか、思想的な面で少し気がかりではあった。
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https://twitter.com/mutopsy/status/1659914973399883785?s=46&t=f08eI0ZKof8UZTVXOuUzyw
「公式の導出の仕方を覚える」「公式じたいを忘れても、自分で導出できる」ということは、「定理の証明に必要となる公理や定義は覚えている/身についている」ことだから、何かしらの記憶容量は必要となる。
定理の導出ができるということは、たとえば幾何学の場合、補助線を引くなどのコツを把握しているということだろう。また数式変形の場合であれば、変形の最初の一歩となるようなコツを把握しているということだろう。
「定義や公理といった前提(出発点となる知識)と、そういった『コツ』を足した総量」が、「公式(定理)を記憶するコスト」よりも低いなら、それはたしかに、公式の導出のしかたを覚えているということなのかもしれない。
より少ない記憶量で、精確に公式(定理)を導くことができるのは、公理体系の素晴らしい点であると思う。(人間の能力における「より汎用性の高い何か」の存在)
ただし試験会場における実際問題として、「応用するために用いる定理の証明に膨大な計算量や時間を要する」ばあい、制限時間内に問題を解き切ることができないおそれがある。そうなっては本末転倒なので、はじめから定理をそのまま覚えておいたほうがいいという場合もある。
おそらく学習指導要領というか教科書は、何を覚え、何を都度の導出に任せるかも考慮しながら組まれている。
公理的体系を把握させることと、定理の用法とのバランス、というか。
定理をいっさい覚えずに、定義や公理だけ覚え、定理を都度導出するよりは、要所要所で定理を抑えてそのまま暗記しておいたほうが、利便性のうえでは(応用者としては)楽かもしれない。
教科書の指示に従って(定理や公式を暗記して)おけばだいたい楽だが、忘れても導出/証明できるのが公理体系の長所(そして忘れても導出できることにこそ数学的な能力がある?)といったところだろうか。
暗記量を極小にすることに数学的な能力はなく、何かしら、幾ばくかのメモリーは必ず使う
何を覚えるかというところに、その人が何を愛するか、どんな人かが現れるので、人格や生活様態・生育歴があらわれたり、学問の本質であったりするのだろうか。
物理学者R.ファインマンが、定理や物理法則の導出についてどこかで述べていたことを思い出す。