6.15/2023

映画『aftersun/アフターサン』を視た。

英題は「日焼け止め」の意味。

単に、父親と過ごしたバカンスを象徴するアイテムを指示するのみなのか、それとも何か比喩的な意味があるのかは不明である。

 

この映画は「父親と過ごしたバカンス中に撮影したビデオを再生している」という体を採っているけれども、映画の大半を占める過去の思い出は、純粋に「映像をそのまま再現したもの」でもなければ、純粋な記憶でもない。

なぜならば、当時の彼女が知る由もない、父親の視点での映像がわずかに混じっているからだ。

ほとんどが彼女の一人称的視点の映像だけれども、純粋な記憶でもない。

わずかに3人称的視点・神の視点とも呼べる映像が含まれている。

 

これは、現代でビデオを鑑賞する彼女が想像によって補完したものなのだろうか。

それとも単に、監督が…映像作家が見せたかったもの、なのだろうか。

 

だとしたらこのような、三人称的映像の補挿にはどんな意味…心理的意味があるのだろう。

 

例えば、彼女が父親と同じ年齢になって、しかも子育てをするようになって、子供に見せる顔と、子供には見えない/見せない顔、つまり〈内心〉の存在というものを知って、あの時見えなかった父親の内心というものを想像してみたのかもしれない。

 

当時の映像/思い出によれば、彼女は少年とキスをした。

それが本当の恋心なのか、ほんの弾みなのかは知らないけれど、現在の映像によれば彼女はレズビアンである。

 

彼女が少年同士のキスを目撃したのは、単に「大人の世界」を覗き見る体験であったのか、それとも自己や、父親の性的指向について暗示する体験であるのかはわからない。

 

父親は海に飛び込むけれども、この映像が〈事実〉であるかどうかはわからない以上、これは「娘にはわからない父親の苦悩」なり、何らかの存在を想像してみただけなのかもしれないし、第3者視点で「事実」を描いたのかもしれない。

 

子育てのストレスや親としての義務感というものの存在を知りつつも、それを子供に伝播させてはならないという思いが父親にもあったに違いない、という想像が3人称的映像を生んだのだろうか。

その中でも象徴的なシーンの1つが、壁を隔てた親子の会話シーンである。

父親は「転んだ」(と称する)ことで骨折した右手首を石膏で固めていたが、その包帯を解くシーンがある。

父親は壁を隔てて娘と会話しながら包帯/石膏にハサミを入れていくが、勢い余って自傷が起こってしまう。

けれども父は、何事もなかったように娘と会話を続けるし、娘は父親の怪我には気づかない。

 

思い起こせば、父親の喫煙も、娘が寝てからベランダで行うのは当たり前のようでいて、この「壁を隔てた会話」と同種のシーンとして包括されるのかもしれない。

すなわち、子に対して親は、どのような顔を見せるか選ぶし、与える情報の種類や量を取捨選択するということだ。

単に「親は子の心身の健康と幸福を願う」といえば当たり前のことだけれども。

 

2人が宿泊する部屋には、手違いによってシングルベッドしかなかった。

だから娘をそちらに寝かせ、父親は簡易ベッドに寝るのだけれども、この構図が1度だけ崩れた夜がある。

 

娘が「大人の世界」に憧れた夜。

父はまるで生まれたままの姿に戻ったように、裸でシングルベッドに寝ていた。

娘が大人の世界へと背伸びする一方で、父は解放されたかのように。(このシーンが、父の隠している何か、を強く暗示する。)

 

基本的には、彼らの親子関係はフラットで、そこに上下関係は感じられない。

まるで友人のようでもあるし、恋人のようでもある。

ニュートラルともフラットとも言える、型にはまらない関係だ。

 

もしも父が何かを隠しているとしたら、そのフラットな父親像も作為的なものなのかもしれないし、それでもなお自然体である(こちらの可能性を願いたくなってしまうが)のかもしれない。

けれども娘に「最高の日」であったかと問われた父は、鏡に向かって思わず唾を吐きかける。

父としての義務を果たしているだけなのだろうか。

 

タイトルの「aftersun(日焼け止め)」に関して言えば、初め父親に日焼け止めを塗ってもらっていた彼女だが、「大人の世界」への憧れを見せつつ、やがて「自分で塗る」と言うようになる。

これはあくまで独り立ちや自立心、思春期の入り口にあることを示したのかもしれないし、父親を異性として意識したのかもしれないが、彼女がどうやらレズビアンであることを考慮するとおそらく前者であると考えて構わないだろう。

 

もしかしたら映像の大半は、記録映像を見ることによって掻き立てられた彼女の想像力が作り出した、心象風景なのかもしれない。そんな映画である。

記憶映像(事実)というよりも記憶に近く、記憶というよりもイメージである。そして、イメージの主体としての作家を身近に感じる。そんな映画である。