6.12/2023 -その3:C.ノーラン『インセプション』論
「映画を視ている自己を意識する」こと:
「映画を視ている」ことに気づかされると、「スクリーンと自己の関係」をイメージする。
→上昇・浮上の感覚、「目覚め」の演出による効果
イメージと一体化していた思考が、現実に還り/我に帰り、自己とスクリーンをその視界に収める。
自己を客観視する体験
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スタート
「自分は映画を視ている」という気づきから、自己客観視へ:〈スクリーンと自己の関係〉のイメージ【メタ認知】
主観的な気づきから、客観的な視点へ、転換
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ゴール
① 階層構造:現実と「夢」のあいだで階層構造を作る。作品を現実で補完する
② 入れ子構造:自らの姿を作品のなかに見出すことによって、物語と現実のあいだで同じ構造を作る。
映画とはイメージ/夢であるが、『インセプション』は、映画のなかに「現実と夢」という階層構造を持たせることによって…そのなかで何度も「眠る」「目覚める」という体験が繰り返される。これにより、映画という夢から覚めた人が現実と夢との関係を意識する。そして現実が、映画のなかの階層構造と呼応し、現実が物語を補完するようにして階層構造が形成される。現実によって物語が補完される。
映画を現実と同一視する人に、夢としての映画への回帰を促す。
映画を夢と言いたいのか、現実と言いたいのか
半現実性
仮想現実
イメージ…
思考がイメージと一体化しているあいだは、映画こそが現実であるが、映画を見終わって現実に帰ってみると、映画とは夢である。
映画が「現実と夢」という階層構造を持つことによって、映画を見終わって現実へ還り、映画を夢だと見なす時に、現実と映画とこそが「現実と夢」という階層構造をなす。
あらかじめ、映画が現実と夢の階層構造を持つことによって、現実と映画が現実と夢の構造をなす時、現実のなかの夢のなかの夢、という階層構造が形成される。
映画を現実と見なすには=映画を厳しいひひょ批評と評価の対象とする
映画を見終わって、映画を夢と見なす時に、「現実と夢」という階層構造が形成される。
映画
私たちが鏡の助けを借りずして自らの姿を見ることができないように、思考は自らの姿を見ることができない。
身体感覚
バック駐車
映画を視ているあいだはそれが現実であるが、映画を視終えると映画は夢である。
厳しい批評と評価の目で見ることのできる映像によって、まずは「現実」を設定する。
続いて明らかに夢である映像をつくり、映画のなかに「現実と夢」の構造をつくる。
ここで夢とは、イメージされるもの、人の脳内に浮かぶものである。
映画を視終えた人が、現実のなかで映画を夢と見なすとき、映画のなかに「現実と夢」ができていることによって、現実と作品とが「現実のなかの夢のなかの夢」という構造をつくる。
映画とは起きて視る夢である…
4/24
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INCEPTION
2つの入れ子構造
映画を見終えてみると、映画は夢であるが、映画を視ているあいだそれは現実である。
これは映画と夢との共通点である。
『インセプション』という映画は、現実から夢の第1,第2,第3,...階層へと、階層構造を持つが、映画における「現実」の層もまた、映画を視終えたあとには夢へと帰す。
このとき、私たちのいる現実と、映画という夢とが併さり、階層構造をなすのだ。
『インセプション』という映画は、現実の私たちの中に置かれる、在る、ことによって完成する。
5.8
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“THE PRESTIGE”(2006)は、のちの『インセプション』において明確に整理された階層構造の萌芽が見られる作品である。
獄中に捕われた男が、1人のマジシャンの日記Aを読んでいる。日記Aを書くマジシャンもまた、囚人の男自身が過去に書いた日記Bを読んでいる。
獄中に捕われた男のいる時制を現在、あるいは現実と置くとき、「映画内における現在/現実と日記A」との関係は、「映画を視る我々のいる現実と映画」との関係に等しい。
→図示
さて、映画、あるいは本、あるいは物語とは、我々が内に抱くイメージである。つまり人間はイメージを内包する。
映画内での現在/現実が、日記Aという物語を内包するとき、さらに日記Aが日記Bを内包する。
→映画における現実(日記A(日記B))
映画内における現実も、1階の物語であるから、我々のいる現実はさらに上記の入れ子構造を内包する。
我々の現実(映画内における現実(日記A(日記B)))
作品全体は、この入れ子構造を、より深い所へ潜ったり、より上の構造へ昇ったりと、下降と上昇を繰り返す物語である。
我々視聴者は、現実からスタートして、1階の物語(現実/現在)へ入り、2〜3階へ潜ったり、また1階へと戻ったりを繰り返しながら、最終的に1階における結末を迎える。
その、ややショッキングな結末が、現実の我々に「語り」をもたらす。
視聴者は現実からスタートして、1階の物語へ入り、最終的に再び1階の物語を経て現実へ引き戻されるのだ。
このように「現在から過去を経て再び現在へと戻る」構造は、『メメント』に見られるようなUターン構造にも通ずる。
ただし『メメント』は時間軸が折り曲げられるようにしてU字構造を成すのに対して、『プレステージ』は時間軸の分割と順序の入れ替え、すなわち編集によって現在からスタートし、過去を経由して現在/現実へと帰還する。
また、『インセプション』が、「現実と夢」の関係のみに注目して階層構造をなし、現実から夢の深いところへ潜って現実へと帰還するのに対して、『プレステージ』においては「物語のより深いところ」へ潜るのと同時に、これは現在から過去へとすすんでから現在へと戻ってくる。すなわち、「現実と夢」という階層構造をなすと同時に、「現在と過去」という構想もまた、出来ている。
4.20
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クリストファー・ノーランによる映画作品の特徴は、大きく2つある。
1つ目は、階層構造の上下と、入れ子構造、そして夢から現実への浮上、である。
2つ目は、「Uターン構造」である。
いずれの特徴も、夢と現実、無知と啓蒙、物語と現実、といった対比ないし差異を通じ、作品内部から現実世界の鑑賞者への回帰という「メタ体験」をはかるものである。
1つ目の特徴が明らかに出ているのは『インセプション』だが、他の作品にもその特徴が垣間見える。短編『doodlebug』は、入れ子構造を率直に視覚化したものと言えるだろう。
2つ目の特徴である「Uターン構造」は、『メメント』や『TENET』において顕著だ。『プレステージ』にもその傾向が垣間見えるほか、『インターステラー』なども該当する。
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4/19
『インセプション』には大きな2つの特徴がある。
1つは、この映画が「映画をつくる映画」であるということ。
2つ目は、階層構造と、上階から下階への「重力」の作用である。
この映画が「映画をつくる映画」であるということは、「夢を見せる」ことが「映画をつくる」ことの比喩であることを意味する。
つまり劇中における「夢」とは、往々にして「映画」の比喩である場合があるのだが、ここで「夢」と「映画」とはともに「イメージ」、つまり心の深いところで夢見られたり、想像されたりされたもの、あるいは夢見たり想像したりすることそのものである。夢と映画とは通底している。
あるいは、映画を「物語」と捉えてもいい。
さて、我々は「映画をつくる映画」を見せられるのだが、劇中に、夢を見せられる者と夢を見せる者との姿を、我々は見る。
スクリーンには夢を見せられる者と、夢を見せる者がおり、我々はそのスクリーンを座って視ている。『インセプション』にもまた、この映画をつくった者がいる。
劇中における「夢を視る者」と「夢を見せる者」との関係が、『インセプション』を視る者と、見せる者とのあいだでも成立している。
ここに、入れ子構造がある。
映画の中にある「視る者-見せる者」という関係が、現実においても成立しているのだ。
この、「映画の中」と「現実」という対比、「夢/映画/物語」と「現実」との関係は、あとあと多く出現するので、覚えておいてほしい。
(「入れ子構造」の図)
※"Doodlebug"について説明すること
さて、『インセプション』における1つ目の特徴が、「映画を視る者-見せる者」という関係が、映画の中と現実との両方で同時に成り立つことにより、入れ子構造をつくっていることだと説明した。
この1つ目の特徴を踏まえて、2つ目の特徴について説明する。
『インセプション』の後半に、登場人物達はいよいよ「任務」を開始する。その任務の内容とは、ある人物に夢を見せることである。
現実世界でその人物を眠らせ、彼の夢の中に侵入するのだ。さらにその「夢」の中でも彼を眠らせることによって、「夢の中の夢」、すなわち夢の第2階層ができる。そして夢は、さらに第3階層、第4階層、とつづく。
映画の中では最終的に、第4階層から第3階層、第2階層を一気に「浮上」して、第1階層における目覚めを迎える。
この時、主人公だけが夢の第4階層よりも深いところに残っているのだが、彼もまたやがて目覚める。
しかし「彼が目覚めたのは、本当に現実か?それとも彼はまだ夢の中か?」という疑問が視聴者に残るような、曖昧な終わり方を迎え、映画はエンドロールに入る。
最後までこの映画を観た者は、「果たして彼は現実で目覚めたのか?それともまだ夢の中にいるのか?」について議論するだろう。
議論が行われるのは、現実において、だ。
我々は、『インセプション』という映画を終わりまで観て、「現実に持ち越す」のである。
すでに述べた通り、映画の終盤に、登場人物達は夢の第4階層から第1階層へと一気に目覚める。
夢からさらに現実へと我々が引き戻されるとき、映画/物語の中で現実と夢のつくる階層は、さらに我々のいる現実とのあいだで階層をつくる。
我々のいる現実と、映画という夢、そして映画の中の夢が階層を作っているのだ。
さらに、映画は単にスクリーンなのではない。あるいは単にスクリーンに写し出される映像なのではない。
映画にとっての夢が、我々にとっての映画であるということは、映画が単に「映像」であるということではなく、我々が夢を視るように映画を視るということ、映画とは我々が思惟する内的なもの、すなわち映画が「イメージ」であるということを意味する。
以上が、『インセプション』という映画の2つ目の特徴である。
ここまで確認してきたのは、まず第一に、『インセプション』が「映画を視る者と見せるもの」についての映画であり、我々もまたその映画を視ることから、「映画を視る者と見せる者」についての映画を視る者と見せる者、という入れ子構造が発生すること。そしてこの入れ子構造が「現実と夢(映画/物語)のなかで」成立していることだ。
第二に、映画の中の階層構造(夢の中の夢)から現実へと浮上して、観客は目覚めるということだ。『インセプション』は、映画のなかで、「現実のなかの夢の中の夢」という階層構造を成立させるだけでなく、現実と映画とで階層構造を成している。映画が現実に置かれ、観客によって視られることによって補完されるということだ。
以上2つの事柄から、『インセプション』は、映画が独立して完成しているのではなく、現実にいる観客によって視られることで、物語の深部から現実へと「浮上」ないし「目覚め」を促すような体験であるということだ。
このような「物語と(それを視る我々のいる)現実」という関係は、今後ノーラン作品について述べるにあたり何度も登場するので、どうか覚えておいてほしい。
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クリストファー・プリースト作、長編小説『奇術師』を原作とした映画『プレステージ』は、「本を読むこと」に潜む階層構造と、時系列の交錯とを兼ね備える作品である。
ノーランが描きたいのは、3つの階層の間に生じる相互作用的関係だ。
★作家と物語の関係・書く者と書かれるもの(者)との関係を、階層と相互作用を通じて描く。
時系列をいくつかのパートに分け、あるパートが別のパートの結果としてあるという因果関係の設定が、「書くこと」「書かれること」という関係を提示する。
読むものと読まれる者との関係(日記と読み手との関係)により、パート間の関係が「前後関係」から「階層構造」(作者と作品)との関係に転ずる。
「書かれたものが読む者を騙す」ということに、映画と鑑賞者との関係(急に)を見て取れる。
像:分割され得ないもの。イメージ。部分を持たない、それ自体が1つであるもの。ある1つの心的状態。心象。心象風景
私たちは、自らによって発された言葉の正しさを考えるとき、「他人の目」によって行う。
それはあくまでも「自分の目」(自らのなかに養われた判断基準・価値基準)でしかないのだが、「自分の目」で自分自身を評価する。
「私の考え」について、自らの目で正しさの網の目(ふるい)にかけるとき、私たちは、「私の考え」について考えている。
私の考えについて考えるその判断基準についても考える、ということをすると無限の入れ子構造がつくられて、際限がない。
やがて私たちは、冴えた現実を生きる。
原型の「私の考え」に浸ることはあたかも映画・物語の世界に浸るようである…
4.14
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MEMENTOについて
前向性健忘を患った男が、妻殺しの犯人を追い求める物語。
ついに復讐を遂げたかに思えるが、人違いであることが明かされる。
時系列を遡りながら、事件の真相を明かしていく構成が斬新。(巻き戻し)
メモに従って行動する男が、自らを殺人犯に仕立て上げる物語であるが、そうなったのも、「物語の作者がそうなるように仕掛けたから」。
「自らが自らを駆動する」奥に、作家という駆動者へとたどり着く。
ここに「作者が書く主人公が、自分自身の行動を決定づける(書く)」という入れ子構造がある。
作者が書く主人公が、自らを書く。
これはノーランが短編映像”Doodlebug”で描いたような入れ構造であり、すでにのちの『インセプション』と同様の入れ子構造が見て取れる。
どれほど現実主義を徹底しようとも拭うことのできない作家の存在、そして作家の成す作為。
現実主義の限界に予防線を張るようでもあり、現実主義のなかに「作家の存在」という事実を入れ込むことこそ現実主義徹底の極致にも思える。
映像の中でどれほど辻褄を合わせようとも、全ての端緒を握っているのは作家である。「作家が創作するから作品が在る/作品はそうなった」という確固たる事実に、創作における、デカルトのcogitoに相当する高みを見る。
本質的には「作家が、読み手が願ったからそうなったに過ぎない」物語を、ナラティブは現実主義という「嘘」によって、物語世界の内部の独立した事象として成立させようとする。ナラティブが全体の整合性を保つために行うこの現実主義(真実味)こそ嘘で、我々がそう願うからそうなったに過ぎない嘘こそ真実だ。この倒錯。
「我々が願っているだけー。」という、物語の1つの原型を確認させくれる。
「私は考えている」を考えたとき、私は「私は考えている」を考えている。と、考えた時、私は「私は「私は考える」を考える」を考える
「考える自分」を自己認識する入れ子は無限である