煙草の香りー思い出

今ではもう解体され、更地になり、アパートが建ったそこにはかつて、1つの邸宅があった。祖母の実家である。

 

祖母の住居からは歩いてほんの2-3分もしない距離にあったその邸宅に住んでいたのは、祖母の兄だ。

 

祖母は●人兄妹で、祖母の実家を引き継いだのがこの長兄だった。

 

葬式会場として親戚が集まることのできるほどの座敷の広間があり、広い芝生の庭には鯉を飼う池。ゴールデンレトリバーの「●●●●」が走り回ることができるくらいにはじゅうぶん広かった。

 

私たちにとってそこは「●●ちゃん家(ち)」だった。

●●ちゃんは、祖母の兄の孫だ。すなわち私にとっては、はとこにあたる。

10歳ほど歳上のお姉さんだったろうか。

 

「●●ちゃんち」にいつも漂う煙草の香りが好きだった。甘く、香ばしい。板張りの床に染み込んでいる。まるでウォールナットの床が甘い香りを醸しているかのようだった。

たいてい、主人である祖母の兄本人は不在にしていた。主人の妻、つまり●●ちゃんのおばあちゃんがいつも出迎えてくれた。

けれども主人が残した香りであることがわかった。

 

 

ボスのように度量の広く、煙草をくゆらせながらソファに腰掛ける。どっしりと構えた男に見えたが、祖母は兄に対して批判的だった。

というのも実家の財産を独り占めしたうえ、バーの開業に注ぎ込み、経営に失敗してしまったからだという。

 

この長兄の息子は●●●●●の青年会会長で、●●●●●で●●●記録を打ち立てるのに尽力するなどした人だったが、●●●である嫁は横領で捕まった(?)りしたあげく、離婚した。

彼が「●●ちゃん」の父親に当たる。

 

祖母の兄が亡くなったあと、邸宅を売り払ったのは彼だ。

妻と離婚し、子供2人が独立したあと、かつて所有していた土地の近くにこじんまりとした家を建てて暮らしていると聞く。

 

今ではその邸宅を訪れることもないし、かつてそこに暮らした人達に会うこともない。

 

 

・・・

 

かつてその土地が「●●●」と呼ばれたのは、●●の家しか建っていなかったからだという。

その中の1つが祖母の実家だった。今では住居が密集している。●●駅も近く、景観もいい。すぐに国道に出られるし、近くには●●川が走っている。散歩すればすぐそこには●●橋だ。

祖母の自宅を訪れた際には、よく自転車、あるいは徒歩で、駅や●●図書館を訪れたのは懐かしい。

 

祖母はよく、戦時中の体験を話していた。

 

-5/23のメモより

6.6/2023 -その2

東京に来ると、20階建てを超える高層ビルは何百本と立っているように思えるけど、地元盛岡では「マリオス」という20階建・約100mの、この30年のあいだに完成したビルが最長だった。(1997年完成・地上92m)

 

大して自慢できるビルでもないし、誇れるものといえば他に岩手山があったから、別にマリオスを眺めることはなんら心を動かす体験ではなかった。

 

けれども高校当時に仲のよかった子の家の、部屋の窓から、日が暮れたあと、ポツポツと灯りの点ったマリオスと周辺のビルを眺めることは、わずかに感傷をもたらす習慣だった。

 

実家というものは自分の心のなかで真っ暗な存在だったし、友達の家は実家から遠くて帰るのがとても面倒だったから、ずっとベッドにへばりついていたかった。

 

アメリカのドラマを見ていると、気軽に「今日は◯◯の家に泊まるよ」というやり取りがあって、今思うととても羨ましい。

 

高校を基準として、その友達の家は実家と反対方向にあったし、自転車でも10km以上はあり、特に帰り道はほとんど登り坂だった。

 

いくつかの情報を伏せている。

 

ー5/23のメモより.池袋,新宿ー都心の高層ビル群を眺めながら.散策中に

 

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 先日鑑賞した『TAR/ター』に親しみを覚えたのは、「ここが自分の生きていた世界」だと感じたからだろうか。母が音楽家で、自宅ではよく来客があって重奏の練習をしていたし、演奏会場の楽屋に出入りすることもよくあった。

 

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知人が妊娠した。

か細い彼女だから、母子の健康が心配になる。

 

どんな思いで、妊娠・出産・育児を決めたのだろうか。

どんな願いを子供に託すのだろう。

 

彼女がこの世界で子育てをするのかどうか、思想的な面で少し気がかりではあった。

 

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https://twitter.com/mutopsy/status/1659914973399883785?s=46&t=f08eI0ZKof8UZTVXOuUzyw

 

「公式の導出の仕方を覚える」「公式じたいを忘れても、自分で導出できる」ということは、「定理の証明に必要となる公理や定義は覚えている/身についている」ことだから、何かしらの記憶容量は必要となる。

 

定理の導出ができるということは、たとえば幾何学の場合、補助線を引くなどのコツを把握しているということだろう。また数式変形の場合であれば、変形の最初の一歩となるようなコツを把握しているということだろう。

 

「定義や公理といった前提(出発点となる知識)と、そういった『コツ』を足した総量」が、「公式(定理)を記憶するコスト」よりも低いなら、それはたしかに、公式の導出のしかたを覚えているということなのかもしれない。

 

より少ない記憶量で、精確に公式(定理)を導くことができるのは、公理体系の素晴らしい点であると思う。(人間の能力における「より汎用性の高い何か」の存在)

 

ただし試験会場における実際問題として、「応用するために用いる定理の証明に膨大な計算量や時間を要する」ばあい、制限時間内に問題を解き切ることができないおそれがある。そうなっては本末転倒なので、はじめから定理をそのまま覚えておいたほうがいいという場合もある。

 

おそらく学習指導要領というか教科書は、何を覚え、何を都度の導出に任せるかも考慮しながら組まれている。

公理的体系を把握させることと、定理の用法とのバランス、というか。

 

定理をいっさい覚えずに、定義や公理だけ覚え、定理を都度導出するよりは、要所要所で定理を抑えてそのまま暗記しておいたほうが、利便性のうえでは(応用者としては)楽かもしれない。

 

教科書の指示に従って(定理や公式を暗記して)おけばだいたい楽だが、忘れても導出/証明できるのが公理体系の長所(そして忘れても導出できることにこそ数学的な能力がある?)といったところだろうか。

 

暗記量を極小にすることに数学的な能力はなく、何かしら、幾ばくかのメモリーは必ず使う

 

何を覚えるかというところに、その人が何を愛するか、どんな人かが現れるので、人格や生活様態・生育歴があらわれたり、学問の本質であったりするのだろうか。

 

物理学者R.ファインマンが、定理や物理法則の導出についてどこかで述べていたことを思い出す。

 

 

6.6/2023

"Oppenheimer"(2023)のTV spotが公開されたようだが、ナチズムへの対抗意識と、米国の団結と称揚を軸に感じた。

 

"DUNKIRIK"(2017)はちょうどBrexitの時期に公開されたが、今作の公開時期には、ロシアによるウクライナ侵攻が国際社会の中心的なテーマとなっていて久しい。

 

ナチは、利権やしがらみに囚われずに手放しで「敵」として描けるから、アメリカ系の映画においては物語を駆動するのに便利だ。

米国民ないしWWⅡにおける連合国諸国民は、おそらく、ナチに対する敵対意識においては容易に一致できるのだろう。

 

ナチは「憎むべき対象」として登場すれば良いのであって、映画の中でナチが登場したとしても、その思想や内容に対し具体的な批判・検討が加えられることは一般的にはない。

誰も疑問を差し挟むことなくナチを「敵だ」と認識する。説明不要の敵だから便利なのだ。

 

米国と現在対立しているロシアがナチズムに相当するわけではないだろう。むしろマッカーシーによる赤狩りの時代を描く方が、より明確にロシアを連想させるだろうが、現在米国民にとっての共通の敵といえばロシアに相当する。

 

一致団結してロシアに対抗する最終手段となるのは核兵器だ。核兵器は、戦後国際社会の秩序、すなわち抑止力として使用されてきた装置だ。

その核兵器開発の責任者としての科学者を描くわけだから、核兵器の功罪ー「功」という言葉を使用して構わないのかわからないがーについて慎重になるはずだ。ノーランの作風を骨組みとしながら。

6.5/2023

週末は、「御仏の殺人」という捜査体験ミステリーを自宅で楽しんだ。友人3人と共に。

それからスナックへ行った。

時間をさかのぼると、昼食には冷麺を食べた。

土曜日の出来事。

 

【日記① 】今日は自宅で謎解きを楽しんだ。自分はあまりentertainingな人間ではないので、付き合ってくれた友達には感謝している。

【日記②】スナックでしこたま(?)飲んだ。酒の味を楽しむというよりは、アルコールという化学物質が人体にもたらす快楽の効果を楽しんだので、奔放な自分をいつもマスターにお世話してもらっている気分になり、これもまた感謝。 -6/3のメモより

 

生きていると、他者に対して自分が何らかの影響を及ぼすことは避けられず、その際、報酬と対価の関係が不明瞭な「借り」を作ることがしばしばあるが、その借りを、幸せに(肯定的に)捉えつつ、その漠然とした恩にどう報いるかを主題に生きられたらなあと思った。

 

カラオケの場を①「自分の声を自分で聴いて今後どう修正するか考える場所」と考えるか、②ただ歌うことに快楽を見出す場所と考えているので、「自分の歌声で他者を魅了する」などという願望はあまりにおこがましく、①の場合を究めつくした人、ないし天性の才能のある人だけが栄光に浸れる境地。

 

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我々の意識/気分に煙草がもたらす明瞭さ/明晰さは、まるで外的な脅威/危機感に迫られた時のそれと同様で、身に危険が及んだ哺乳類の反応に等しく、単に快楽/快感が身を弛緩させるのみではない。

 

・・・

 

 

ミステリ/サスペンス(虚構/フィクション∈文学作品,映像作品)は2種類の性質を兼ね備えているようで、1つは現実的な性質、もう1つは虚構としての、イメージとしての性質、らしい。

 

一般的に、ミステリ作品の目的は、事件の犯人や真相(=どのようにして、どうして、犯行がなされたか、いつ、どこで、etc.)を解明すること(=根拠/証拠に基づき、論理的に説明し、可能なら犯人の自白を引き出す)にある。

 

のだが、ここで「現実的な性質」とは、あたかも事件が実際に我々の住む現実世界において発生したと仮定し、実際に起こった事件の犯人を特定するためにどのような証拠に基づいたらよいかを考えること。

 

そして「虚構としての、イメージとしての性質」とは、ミステリ作品(フィクション)がどこまでも現実的ではないということ…例えば、作家が用意した手札だとか誘導に乗っかり、時にはやや飛躍した犯人探しが行われること。作家の用意した概念から犯人を選ぶこと?

 

 

・・・

 

 

-数学者にまつわるジョーク-

 

天文学者と物理学者と数学者がスコットランドで休暇を過ごしていた。列車の窓から眺めていると、平原の真ん中に黒い羊がいるのが見えた。

天文学者:なんてこった!スコットランドの羊はみんな真っ黒なんだね。
物理学者:違う違う。せいぜい何匹かが黒いだけさ。
数学者:(天を仰ぎながらやれやれという調子で、抑揚を付けて)スコットランドには、少なくとも1つの平原が存在し、そこに1匹の羊が居て、さらにこっち側の片面が黒いということが分かるだけさ。

 

原文 An astronomer, a physicist and a mathematician were holidaying in Scotland. Glancing from a train window, they observed a black sheep in the middle of a field.
"How interesting," observed the astronomer, "all scottish sheep are black!"
To which the physicist responded, "No, no! Some Scottish sheep are black!"
The mathematician gazed heavenward in supplication, and then intoned, "In Scotland there exists at least one field, containing at least one sheep, at least one side of which is black."

 

 

このジョークに、生物学者を追加して「あれはヤギです」と言わせる派生パターンも存在するが、それはさておき、このジョークの主旨は「偽を回避する言明」につとめる数学者の姿をcaptureすることにあるだろう。

 

つまり「正しい(=真なる)言明」をおこなうこと。これは、言明と事実/現実を突き合わせ、言明(命題)の真偽を判定した結果が真であることを目指して、そのようなことばをかたちづくるということだ。

 

これは文章作成のさいにも当てはまるが、映像という架空の言語を撮影するさいにも当てはまる。

映像と現実を見比べたさいに、「偽」だと判定されないこと。

過度な加工はもちろんだし、CG映像もそうだ。

 

偽をきらう数学者的態度に基づいて言明をおこなうように、クリストファー・ノーランは映像製作をおこなう。

 

けれども、厳しい現実主義/実写主義/実物主義/本物主義(「まさに実際にその映像が事実として現実世界において発生してもよい/構わない」主義、シミュレーション主義?)と対照的に、明らかに現実世界のルールからは逸脱した夢想的映像を製作したのが『インセプション』(2010)だ。

この『インセプション』のなかには、実写主義に基づいて製作された映像もあるけれど、実写主義の枠組みの外で製作された映像もある。

インセプション』のなかで描かれる夢の世界は、「夢とわかるが実物によって撮影された映像」もあるが、「明らかに夢ないしファンタジー/空想/幻想であり、しかもCGを用いて製作された映像」もある。(コブがアリアドネに対し、夢の世界のルールを共有する場面/パリのシーン)

実写主義に基づく映像でありながらもそれを夢であると思わせる誘導の手法も面白い。

 

ノーランは現実を現実として描く…ファンタジー作品のように「幻想された現実」ではない。

けれども「夢の世界」を、実写によって描きながらも、空想的に…明らかに実写主義から逸脱して描いたことがある。これは「夢の中」という前提/仮定を観客に共有したからこそ、ノーランが自分自身に対して許容できたことだ。

 

すでに述べたように、ノーランは「空想的な現実」は描かない。彼の中では、「現実世界と同様の映画内現実」と、「明らかな夢想」の2種類しかない。現実世界における「現実」と「夢想」の対比をそのまま映像にも適用したのだ。

一般的には、映画は夢想されたことも現実として描くけれども、ノーランは、夢想的なことは夢想として描くべきだ、という流儀で映像を作っているのだ。

 

だから彼が、夢想的なことを映像でやるためには、「夢の中」という許しが必要となる。

夢想的なことは非現実的だという批判を免れないから、夢想的なことをやるために、映画という夢想のなかに「夢の世界」を作る。『インセプション』が、現実のなかに夢の世界をつくるのは、そういう理由なのだろう。

それゆえに、映画内における夢の設計が、映画製作のメタファーである、というメタフィクション的性質が成り立つ。

 

現代最新のサブカルチャーについても、ノーラン作品と同様のことが言えるらしい。

 

>異世界転生ものって、「フィクションについてのフィクション(メタフィクション)であることによって、純粋なフィクションで居ることができている/純粋なフィクションを提供できている」ってこと?(現実的な視点から、フィクションは批判にさらされるので、フィクションinフィクションの世界へ後退)  ー5/30のメモより

 

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6/4(日)  

 

① ジャズ喫茶「Donato」-御茶ノ水

② 書店「猫の本棚」-神保町/水道橋

 

武満徹『夢の引用』が欲しい。自分の考察と、まさにドンピシャだ。

 

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youtu.be

小5ぐらいの頃には夜中にラジオを聴いていた。

地元の放送局にチャンネルを合わせると『星めぐりの歌』が流れてきた記憶がある。

それなりに街ではあるから、盛岡育ちの人間が農業に携わったり、農業の現場に出入りしたりすることは(少なくとも子供のあいだは)あまりないのだが、宮沢賢治効果なのか、盛岡市民にだってそれなりに「農業県民」としての自負が定着していた。

あとはIBCの天気予報のスポンサーがヤンマーであることが大きい(?) 

そしてローカルCMと言えば「ゆきんこ」である(石割桜!?)

 

「農民」という単語は卑しい身分としてのイメージを持たれがちだが、とてもたいせつな職業であると今ではわかる。(家事なり清掃業なり、それが存在しないとみなが困る職業はとても多いが、たいてい軽んじられたり無視されたりしがちで、皆が目指すのはもっと高級な仕事である)

江戸時代における封建制度士農工商においては、農民の序列は第2位だったというが、実質的な扱いはひどかったということも聞く。(序列だけでは家計は満たされない)

学校教育の現場では、最近の教科書から「士農工商」という用語が消えたとも聞くが。

第34回 教科書から『士農工商』が消えた ー前編ー 2021年(令和3年)7月号 / 宇城市

 

高級な仕事が往々にして伴う専門性、つまり専門的な思考に没頭するほど、たしかに身の回りの雑務などはとても面倒に感じるので、肩代わりしてもらうのは重要かも知れないが、人間は先天的に職業の貴賤を感じ取って序列化し、脳内にピラミッド構造を形成しているようなのである。

ピラミッド構造に応じて給与格差が発生しているけれども、このような直感に基づく給与格差のようなものは旧式で、現代では収益が多いものがちの市場原理に基づく変動的な給与制度が優位にも思える。

市場原理は筋が通ってはいるが、収益性は低くとも確かに高尚なもの、素晴らしいものというのは存在するので、行政によって守られても良い(なんとかマネタイズの道を模索するのでも良いが)と感じるが、近年の日本では経済につながらないものは切り捨てるあまりに実質主義的な傾向が幅を利かせつつあるようにも思われるし、税制も崩壊しそうなので、文化-科学や芸術は富豪によって(個人依存で)守られることを期待するしかないのだろうか。中世や近代の王侯貴族、パトロンに期待するのにも似ている。

6.3/2023

映画『メッセージ』(2017)において、D.ヴィルヌーヴがおこなったトリックは、「過去の出来事を暗示しているように見せかけた映像が、実は未来の出来事であった」というものだ。

観客は冒頭の映像を、「主人公の過去における出産体験」だと解釈する。しかし本編を経て、実はそれが未来の出来事であると判明する。過去の記憶、ではなく未来の幻視なのだ。

もちろんこのような結末を理解するには、作中特有の設定が必要となる。すなわち、「時間というものが存在しない(あらゆる時間に同時に存在できる)」という、作中に登場する宇宙人の言語を主人公が習得する体験のことだ。

※ここでいう「時間が存在しない」というのは、あたかも時間軸上を空間のように移動できるないし把握できるようなこと。

ただしここで重要なのは、1つの映像が、過去と未来というまったく真逆の2つの意味合いを同時にもちうる、兼ね備え得る、ということなのだ。

 

『メッセージ』以前にも、ヴィルヌーヴは同様のトリックを、『複製された男』(2013)のなかにふんだんに散りばめている。『メッセージ』におけるこのトリックの使用は1通りのみであったが、『複製された男』においては同様の手法が何度も繰り返し、作品内に配置されているのだ。

1つの映像が、現実と妄想/イメージという二重の意味合いを持つ。それゆえに『複製された男』という作品には絶対的な解釈が存在すること能わず、まさに混沌とした様相を呈している。

 

あまりに映像が克明/鮮明なので、「何者も真理からは逃れられない」とすら思わせるほどの現実主義で描いた『プリズナーズ』(2013)を製作する裏で、多様な解釈を許容する『複製された男』を製作している。

 

 

▶︎『複製された男』作品考察

▶︎ヴィルヌーヴ監督作品のメッセージ:「声」に耳を傾ける/可能性を閉さない/開かれた心

 

それでは具体的に、『複製された男』において、1個1個の映像が多重的な意味を持ち、それゆえに作品を一貫した解釈(絶対的解釈/正解の解釈)が成し得ないあり様を見ていこう。

 

と言っても、実は1つの一貫した解釈は存在する。それは素朴に「主人公の複製が実在する」という解釈だ。

※映像がすべて(99%)現実であるとする解釈。ただし例外は存在する。後述。

この素朴な解釈に従えば、この物語は、「瓜二つな2人の男が出会い、互いの妻/恋人をスワッピングするが、片方のカップルは自動車事故で死んでしまう」ということになる。

 

けれどもこの解釈の問題点は、「だから何だ」という感想だけを後に残すということにある。

素朴にこの映画を視ただけでは、主人公の"複製"が存在する理由も分からないし、蜘蛛や秘密の部屋といった物語の鍵となりそうな要素も謎のままだ。

そう、この物語には説明=真相の開示が存在しないのである。淡々と"事実"のみを羅列したものとなっている。

 

しかしながら、注意深く鑑賞すると、このような素朴な鑑賞から生じる素朴な解釈に対して疑問を挟む余地を、作家が用意してくれていることがわかる。

 

それはまず、主人公の"複製"の妻が、主人公に会うために大学のキャンバスを訪れるシーンだ。

主人公、すなわち大学教員と邂逅した「妻」は、彼があまりに夫と瓜二つだったので、思わずその場で夫に電話をかける。

するとなんと、電話に出たのは夫だった。このことはまるで、夫と瓜二つの別人が実在することを裏付ける動かぬ証拠であるように思える。

しかしながら、よくよく映像を眺めてみれば、夫が妻からの電話に応答した時、タイミングよく大学教員である主人公は物陰に隠れている。

もしも大学教員が、妻の目の前、ないし視界に入った状態で夫が電話に応答したのなら、大学教員と、俳優という瓜二つな別人どうしの存在が(妻の視点から)実証されるだろう。

しかし妻の視界からちょうど大学教員が消えたタイミングで夫が電話に応答したのでは、瓜二つな2人の人間の存在を証明することにはならないのである。

通常なら、ドッペルゲンガーの存在を実証する場面で、あえて作家は確証を提示しない。ぼんやりと、ゆるく映画を鑑賞している頭脳にとってはこのシーンによって証明が完了したようにも思えるけれども、厳密に、正しくみれば証明はあえて完了していないのだ。

ただしこのシーンは、瓜二つな2人の人間の存在の証拠にはならないけれども、かといって2人が同一人物である(どちらかが一方を演じているー互いが互いを演じているー)ということの証拠にもならない。なぜならば、妻の電話に夫が応答した時、大学教員の姿は見えていないから、大学教員が夫の声で応答したともしていないとも言えないからである。

とはいえこのシーンにおいて、ドッペルゲンガーの存在する証拠を提示している場面であるかのように演出しておきながら、厳密には証明を未完で終えているということは、"複製"が実在する(別々の人間でありながら瓜二つの2人の人間が存在する)という素朴な解釈に疑問を挟み、それとは異なった解釈を視聴者へ促そうとする意図があるように思えるのだ。

 

▶︎妄想説/演技説

 

D.フィンチャー監督作品『ファイトクラブ』(1999)を鑑賞済みの視聴者にとっては、『複製された男』を視て、「主人公は不眠症で、昼間は大学教員を、夜は俳優/夫を演じているのではないか?」という説を指摘するのは難しいことではないだろう。実際、作中には主人公が「眠れない」と吐露する場面もあるし、彼はいつも眠そうに/だるそうにしている。

主人公と俳優とが面会する場面があるけれども、あれは『ファイトクラブ』と同様に、幻覚の人格と対面しているのだ、と。つまり主人公は不眠症で、もう1人の人格を持ち、その人格が主人公の知らないところで俳優として活動していたのではないか?と。ないし、主人公は解離性同一症なのではないか、と。

 

▶︎この解釈に従えば、映画冒頭における主人公の生活ルーティンを示す一連のシークエンスがミスリーディングを誘う演出だった、という解釈がもたらされる。

 

このような解釈(不眠症説/多重人格説)は、1つの肉体に大学教員と俳優という異なる2つの人格が宿っているということを前提とする。けれども容易にこの解釈に対する反証を挙げることができる。それはすなわち物語の最終盤だ。肉体が1つしかないということは、主人公が自動車事故に遭った直後に、何事もなかったかのように妻との生活に戻っているということは不可能なのだ。

 

では、「2つの別人が存在する」のでも、「1つの肉体に2つの別人格が宿っている」のでもないという時、この作品をどのように解釈したらよいのだろうか。

※もちろん、何ら意味をもたらさない「複製実在説」が(複製が存在するというその異例さをのぞいては)論理的には整合的であることは間違いがない。けれども実在説がこの作品に対する正当な解釈としては除外されてしまうのは、まさにその「意味がない」ゆえだ。ただし後述するが、たとえ実在説には意味がなかったとしても、この作品を正当に批評するうえで実在説は誰しも通過すべき解釈である。実在説を踏まえたうえで他の説を検討し、この作品の意図というものを理解すべきだからだ。

 

 

1つの解釈は、主人公の肉体はたしかに1つなのだが、主人公は複製が存在するフリをしており、また時折、非現実=主人公の内面、妄想や想像、イメージ、過去や記憶の映像が入り混じっている、というものである。

元々主人公だと思われていた大学教員は、その生活ルーティンが描写されることで主人公だと思われるのだが、実は俳優の演技の一環であり、俳優は大学教員としての顔を使って、まるで自らのそっくりさんが存在するかのように妻に対して振る舞っている、というあまりに荒唐無稽なものとなる。(2度目は喜劇として)しかしこの解釈の問題点は、俳優としての仕事はせいぜい2〜3本の男が、大学教員としての収入によって生活しているはずなのに、妻は彼の本業を知らないらしいという矛盾を生じていることだ。ここに来ていよいよ混沌として映画を一貫する正しい解釈を行うことは不可能にも思えてくる。

 

(5/25のメモより)

 

 

つづく

6.2/2023-その2

今朝は、悪夢による中途覚醒を経験した。

複数人に取り囲まれーみな男で、どれも知り合いだった。ー、フォークで滅多刺しにされた。

自分は抵抗した。

 

・・・・

 

ライプニッツモナドジー』を2回ほど通し読みした。

モナド〉は「実体」でありながら、原子でもないし、数学的な点とも異なるらしい。

ライプニッツなりの世界理解。

 

〈表象〉なる語の理解が必要だ。

 

モナドジー』は、アリストテレス哲学、スコラ哲学の文脈上にあり、デカルト哲学に対する反幕でもあるようだから、経験(観察と実験)に基づく世界構築とも異なるようである。

ライプニッツといえば...微積分の人。

 

予備校で、物理学の講師が「数学は子供でもできる。物理は大人じゃないとできない」と言っていたことを思い出す。

物理学の経験科学としての性質を語る意味合いも込められているものと思われるが、その意味では『モナドジー』は、世界理解としては物理学よりも数学らしさを感じた。

 

6.2/2023

「5.18/2023」のつづき

 

映画『すずめの戸締り』について。

すずめが草太と初めて出会ったあと、一度登校したにもかかわらず、彼女はわざわざ道を引き返して廃墟まで(草太よりも先に)辿り着く。その理由は明かされていないし、説明されていることもない。それは物語の作り手が彼女をそう動かしているとしか言いようがないし、作家や、我々観客の「冒険を求める心/非日常への逸脱」だ。

けれども、映画を最後まで視ると、彼女が日本各地の扉を閉める旅に出る理由=彼女の使命感/義務感が明かされる。

 

この映画はループ構造を呈している。

常世」で過去の/幼少期の自己と対面したすずめは、自分自身を後押しする。

そうして幼少期のうちに動機づけられた彼女は、また成長し、過去の自己と対面する。

 

この循環/円環の少し手前で、すずめが経験したのが東日本大震災と、母親との離別だ。

父親の存在は描写されていないものの、彼女は東日本大震災で母親と離別している。きっと母の遺体も見つかっていないのかもしれない。

この被災体験は、彼女が「戸締り」の旅に出る義務感/使命感を与えるのに十分な理由になっているだろう。

 

一方で、東京において東の置き石を封印した後は、彼女の行動の動機は「被災体験=公的なもの/すべての人々のため/再び災害が発生するのを防ぐため」というものから「草太のため=自己のため」という私的なものへと転換する。これは愛/恋だ。

そして彼女は自らの故郷へと還り、草太を救い出すと共に、育ての親との邂逅を果たす。つまり、未来への準備を果たす。

 

意図的に伏せられた彼女の過去が明かされる後半部は、「物理的な前進」であった前半部とは一転して、精神的なもの、記憶や感情、そして知性へと訴えかける。

時間軸上における過去との邂逅が、記憶や精神といった人間の内的なものに訴える。

後半に開示された情報が、前半部/序盤を説明する。ループ構造。

 

・・・・

 

『すずめの戸締まり』についての記述はこれで終わりとします。