6.15/2023
映画『aftersun/アフターサン』を視た。
英題は「日焼け止め」の意味。
単に、父親と過ごしたバカンスを象徴するアイテムを指示するのみなのか、それとも何か比喩的な意味があるのかは不明である。
この映画は「父親と過ごしたバカンス中に撮影したビデオを再生している」という体を採っているけれども、映画の大半を占める過去の思い出は、純粋に「映像をそのまま再現したもの」でもなければ、純粋な記憶でもない。
なぜならば、当時の彼女が知る由もない、父親の視点での映像がわずかに混じっているからだ。
ほとんどが彼女の一人称的視点の映像だけれども、純粋な記憶でもない。
わずかに3人称的視点・神の視点とも呼べる映像が含まれている。
これは、現代でビデオを鑑賞する彼女が想像によって補完したものなのだろうか。
それとも単に、監督が…映像作家が見せたかったもの、なのだろうか。
だとしたらこのような、三人称的映像の補挿にはどんな意味…心理的意味があるのだろう。
例えば、彼女が父親と同じ年齢になって、しかも子育てをするようになって、子供に見せる顔と、子供には見えない/見せない顔、つまり〈内心〉の存在というものを知って、あの時見えなかった父親の内心というものを想像してみたのかもしれない。
当時の映像/思い出によれば、彼女は少年とキスをした。
それが本当の恋心なのか、ほんの弾みなのかは知らないけれど、現在の映像によれば彼女はレズビアンである。
彼女が少年同士のキスを目撃したのは、単に「大人の世界」を覗き見る体験であったのか、それとも自己や、父親の性的指向について暗示する体験であるのかはわからない。
父親は海に飛び込むけれども、この映像が〈事実〉であるかどうかはわからない以上、これは「娘にはわからない父親の苦悩」なり、何らかの存在を想像してみただけなのかもしれないし、第3者視点で「事実」を描いたのかもしれない。
子育てのストレスや親としての義務感というものの存在を知りつつも、それを子供に伝播させてはならないという思いが父親にもあったに違いない、という想像が3人称的映像を生んだのだろうか。
その中でも象徴的なシーンの1つが、壁を隔てた親子の会話シーンである。
父親は「転んだ」(と称する)ことで骨折した右手首を石膏で固めていたが、その包帯を解くシーンがある。
父親は壁を隔てて娘と会話しながら包帯/石膏にハサミを入れていくが、勢い余って自傷が起こってしまう。
けれども父は、何事もなかったように娘と会話を続けるし、娘は父親の怪我には気づかない。
思い起こせば、父親の喫煙も、娘が寝てからベランダで行うのは当たり前のようでいて、この「壁を隔てた会話」と同種のシーンとして包括されるのかもしれない。
すなわち、子に対して親は、どのような顔を見せるか選ぶし、与える情報の種類や量を取捨選択するということだ。
単に「親は子の心身の健康と幸福を願う」といえば当たり前のことだけれども。
2人が宿泊する部屋には、手違いによってシングルベッドしかなかった。
だから娘をそちらに寝かせ、父親は簡易ベッドに寝るのだけれども、この構図が1度だけ崩れた夜がある。
娘が「大人の世界」に憧れた夜。
父はまるで生まれたままの姿に戻ったように、裸でシングルベッドに寝ていた。
娘が大人の世界へと背伸びする一方で、父は解放されたかのように。(このシーンが、父の隠している何か、を強く暗示する。)
基本的には、彼らの親子関係はフラットで、そこに上下関係は感じられない。
まるで友人のようでもあるし、恋人のようでもある。
ニュートラルともフラットとも言える、型にはまらない関係だ。
もしも父が何かを隠しているとしたら、そのフラットな父親像も作為的なものなのかもしれないし、それでもなお自然体である(こちらの可能性を願いたくなってしまうが)のかもしれない。
けれども娘に「最高の日」であったかと問われた父は、鏡に向かって思わず唾を吐きかける。
父としての義務を果たしているだけなのだろうか。
タイトルの「aftersun(日焼け止め)」に関して言えば、初め父親に日焼け止めを塗ってもらっていた彼女だが、「大人の世界」への憧れを見せつつ、やがて「自分で塗る」と言うようになる。
これはあくまで独り立ちや自立心、思春期の入り口にあることを示したのかもしれないし、父親を異性として意識したのかもしれないが、彼女がどうやらレズビアンであることを考慮するとおそらく前者であると考えて構わないだろう。
もしかしたら映像の大半は、記録映像を見ることによって掻き立てられた彼女の想像力が作り出した、心象風景なのかもしれない。そんな映画である。
記憶映像(事実)というよりも記憶に近く、記憶というよりもイメージである。そして、イメージの主体としての作家を身近に感じる。そんな映画である。
6.13/2023
期待の新作『ザ・クリエイター/創世者』
9.29公開
ギャレス・エドワーズ監督(『ローグ・ワン』)
『TENET/テネット』のデイヴィッド・ワシントン主演
オリジナル脚本・大作
シネマトグラフィに期待感
AI:テーマ性に注目
映画『ザ・クリエイター/創世者』特報|9月29日(金)世界同時公開! - YouTube
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Oppenheimer (2023) の日本公開日をはやく決定してほしい。
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『マクベス』(2021)を視たい。
The Tragedy of Macbeth
→ Apple TV
あらすじ
荒野で魔女たちと遭遇してからというもの、スコットランドの将軍、マクベスは己がうちに秘めていた野心を抑えられなくなっていた。やがて、マクベスは王位簒奪を決意するに至るが、その先に待ち受けていたのは悲劇的な結末であった。
作品だけを視るか?原作を読むか?
視聴者が原作を読んでいることを前提とした作品である可能性も高い。
→「原作をよく表現しているか」
特に、賞レース・批評家受けを狙った作品の場合は。
〈マクベス〉は演劇界の人々にとって最も有名な古典なのだから。
罪悪感と野心。
Memento (2000) や Inception (2010)を思い出す。
コーエン兄弟といえば、自分にとっては『バーバー』(2001)。ちょっとした欲望と罪。味わい深い作品。
罪の〈罪悪性〉だけではなく、そもそも罪を犯す理由や目的となった欲や野心・野望を両輪で描く面でノーランは良い...のかも。
『ノーカントリー』(2007) を思い出すと、特段、罪悪感を描いた作品ではなかったけど、マフィアから盗んだ大金を所持し、隠し通そうとする逃避行...スリルとリターン。ギャンブラー。
ジョーカー?『ダークナイト』(2008)?
「人生は賭けである」...
『マクベス』(2021) の主演はデンゼル・ワシントン。マクベス夫人役はフランシス・マクドーマンド、といえばコーエン兄弟作品の常連。
『マクベス』(2015) 、マイケル・ファスベンダー主演で公開されてから日が浅いうちでの傑作の誕生。
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『バーバー』にしろ、『ノーカントリー』にしろ、欲をかく人間の無表情さ、朴訥さ、というか。『ファーゴ』はそれを間抜けな方向へ。
6.12/2023 -その3:C.ノーラン『インセプション』論
「映画を視ている自己を意識する」こと:
「映画を視ている」ことに気づかされると、「スクリーンと自己の関係」をイメージする。
→上昇・浮上の感覚、「目覚め」の演出による効果
イメージと一体化していた思考が、現実に還り/我に帰り、自己とスクリーンをその視界に収める。
自己を客観視する体験
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スタート
「自分は映画を視ている」という気づきから、自己客観視へ:〈スクリーンと自己の関係〉のイメージ【メタ認知】
主観的な気づきから、客観的な視点へ、転換
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ゴール
① 階層構造:現実と「夢」のあいだで階層構造を作る。作品を現実で補完する
② 入れ子構造:自らの姿を作品のなかに見出すことによって、物語と現実のあいだで同じ構造を作る。
映画とはイメージ/夢であるが、『インセプション』は、映画のなかに「現実と夢」という階層構造を持たせることによって…そのなかで何度も「眠る」「目覚める」という体験が繰り返される。これにより、映画という夢から覚めた人が現実と夢との関係を意識する。そして現実が、映画のなかの階層構造と呼応し、現実が物語を補完するようにして階層構造が形成される。現実によって物語が補完される。
映画を現実と同一視する人に、夢としての映画への回帰を促す。
映画を夢と言いたいのか、現実と言いたいのか
半現実性
仮想現実
イメージ…
思考がイメージと一体化しているあいだは、映画こそが現実であるが、映画を見終わって現実に帰ってみると、映画とは夢である。
映画が「現実と夢」という階層構造を持つことによって、映画を見終わって現実へ還り、映画を夢だと見なす時に、現実と映画とこそが「現実と夢」という階層構造をなす。
あらかじめ、映画が現実と夢の階層構造を持つことによって、現実と映画が現実と夢の構造をなす時、現実のなかの夢のなかの夢、という階層構造が形成される。
映画を現実と見なすには=映画を厳しいひひょ批評と評価の対象とする
映画を見終わって、映画を夢と見なす時に、「現実と夢」という階層構造が形成される。
映画
私たちが鏡の助けを借りずして自らの姿を見ることができないように、思考は自らの姿を見ることができない。
身体感覚
バック駐車
映画を視ているあいだはそれが現実であるが、映画を視終えると映画は夢である。
厳しい批評と評価の目で見ることのできる映像によって、まずは「現実」を設定する。
続いて明らかに夢である映像をつくり、映画のなかに「現実と夢」の構造をつくる。
ここで夢とは、イメージされるもの、人の脳内に浮かぶものである。
映画を視終えた人が、現実のなかで映画を夢と見なすとき、映画のなかに「現実と夢」ができていることによって、現実と作品とが「現実のなかの夢のなかの夢」という構造をつくる。
映画とは起きて視る夢である…
4/24
・・・・・・・・
INCEPTION
2つの入れ子構造
映画を見終えてみると、映画は夢であるが、映画を視ているあいだそれは現実である。
これは映画と夢との共通点である。
『インセプション』という映画は、現実から夢の第1,第2,第3,...階層へと、階層構造を持つが、映画における「現実」の層もまた、映画を視終えたあとには夢へと帰す。
このとき、私たちのいる現実と、映画という夢とが併さり、階層構造をなすのだ。
『インセプション』という映画は、現実の私たちの中に置かれる、在る、ことによって完成する。
5.8
・・・・・・・
“THE PRESTIGE”(2006)は、のちの『インセプション』において明確に整理された階層構造の萌芽が見られる作品である。
獄中に捕われた男が、1人のマジシャンの日記Aを読んでいる。日記Aを書くマジシャンもまた、囚人の男自身が過去に書いた日記Bを読んでいる。
獄中に捕われた男のいる時制を現在、あるいは現実と置くとき、「映画内における現在/現実と日記A」との関係は、「映画を視る我々のいる現実と映画」との関係に等しい。
→図示
さて、映画、あるいは本、あるいは物語とは、我々が内に抱くイメージである。つまり人間はイメージを内包する。
映画内での現在/現実が、日記Aという物語を内包するとき、さらに日記Aが日記Bを内包する。
→映画における現実(日記A(日記B))
映画内における現実も、1階の物語であるから、我々のいる現実はさらに上記の入れ子構造を内包する。
我々の現実(映画内における現実(日記A(日記B)))
作品全体は、この入れ子構造を、より深い所へ潜ったり、より上の構造へ昇ったりと、下降と上昇を繰り返す物語である。
我々視聴者は、現実からスタートして、1階の物語(現実/現在)へ入り、2〜3階へ潜ったり、また1階へと戻ったりを繰り返しながら、最終的に1階における結末を迎える。
その、ややショッキングな結末が、現実の我々に「語り」をもたらす。
視聴者は現実からスタートして、1階の物語へ入り、最終的に再び1階の物語を経て現実へ引き戻されるのだ。
このように「現在から過去を経て再び現在へと戻る」構造は、『メメント』に見られるようなUターン構造にも通ずる。
ただし『メメント』は時間軸が折り曲げられるようにしてU字構造を成すのに対して、『プレステージ』は時間軸の分割と順序の入れ替え、すなわち編集によって現在からスタートし、過去を経由して現在/現実へと帰還する。
また、『インセプション』が、「現実と夢」の関係のみに注目して階層構造をなし、現実から夢の深いところへ潜って現実へと帰還するのに対して、『プレステージ』においては「物語のより深いところ」へ潜るのと同時に、これは現在から過去へとすすんでから現在へと戻ってくる。すなわち、「現実と夢」という階層構造をなすと同時に、「現在と過去」という構想もまた、出来ている。
4.20
・・・・・・・・
クリストファー・ノーランによる映画作品の特徴は、大きく2つある。
1つ目は、階層構造の上下と、入れ子構造、そして夢から現実への浮上、である。
2つ目は、「Uターン構造」である。
いずれの特徴も、夢と現実、無知と啓蒙、物語と現実、といった対比ないし差異を通じ、作品内部から現実世界の鑑賞者への回帰という「メタ体験」をはかるものである。
1つ目の特徴が明らかに出ているのは『インセプション』だが、他の作品にもその特徴が垣間見える。短編『doodlebug』は、入れ子構造を率直に視覚化したものと言えるだろう。
2つ目の特徴である「Uターン構造」は、『メメント』や『TENET』において顕著だ。『プレステージ』にもその傾向が垣間見えるほか、『インターステラー』なども該当する。
・・・
4/19
『インセプション』には大きな2つの特徴がある。
1つは、この映画が「映画をつくる映画」であるということ。
2つ目は、階層構造と、上階から下階への「重力」の作用である。
この映画が「映画をつくる映画」であるということは、「夢を見せる」ことが「映画をつくる」ことの比喩であることを意味する。
つまり劇中における「夢」とは、往々にして「映画」の比喩である場合があるのだが、ここで「夢」と「映画」とはともに「イメージ」、つまり心の深いところで夢見られたり、想像されたりされたもの、あるいは夢見たり想像したりすることそのものである。夢と映画とは通底している。
あるいは、映画を「物語」と捉えてもいい。
さて、我々は「映画をつくる映画」を見せられるのだが、劇中に、夢を見せられる者と夢を見せる者との姿を、我々は見る。
スクリーンには夢を見せられる者と、夢を見せる者がおり、我々はそのスクリーンを座って視ている。『インセプション』にもまた、この映画をつくった者がいる。
劇中における「夢を視る者」と「夢を見せる者」との関係が、『インセプション』を視る者と、見せる者とのあいだでも成立している。
ここに、入れ子構造がある。
映画の中にある「視る者-見せる者」という関係が、現実においても成立しているのだ。
この、「映画の中」と「現実」という対比、「夢/映画/物語」と「現実」との関係は、あとあと多く出現するので、覚えておいてほしい。
(「入れ子構造」の図)
※"Doodlebug"について説明すること
さて、『インセプション』における1つ目の特徴が、「映画を視る者-見せる者」という関係が、映画の中と現実との両方で同時に成り立つことにより、入れ子構造をつくっていることだと説明した。
この1つ目の特徴を踏まえて、2つ目の特徴について説明する。
『インセプション』の後半に、登場人物達はいよいよ「任務」を開始する。その任務の内容とは、ある人物に夢を見せることである。
現実世界でその人物を眠らせ、彼の夢の中に侵入するのだ。さらにその「夢」の中でも彼を眠らせることによって、「夢の中の夢」、すなわち夢の第2階層ができる。そして夢は、さらに第3階層、第4階層、とつづく。
映画の中では最終的に、第4階層から第3階層、第2階層を一気に「浮上」して、第1階層における目覚めを迎える。
この時、主人公だけが夢の第4階層よりも深いところに残っているのだが、彼もまたやがて目覚める。
しかし「彼が目覚めたのは、本当に現実か?それとも彼はまだ夢の中か?」という疑問が視聴者に残るような、曖昧な終わり方を迎え、映画はエンドロールに入る。
最後までこの映画を観た者は、「果たして彼は現実で目覚めたのか?それともまだ夢の中にいるのか?」について議論するだろう。
議論が行われるのは、現実において、だ。
我々は、『インセプション』という映画を終わりまで観て、「現実に持ち越す」のである。
すでに述べた通り、映画の終盤に、登場人物達は夢の第4階層から第1階層へと一気に目覚める。
夢からさらに現実へと我々が引き戻されるとき、映画/物語の中で現実と夢のつくる階層は、さらに我々のいる現実とのあいだで階層をつくる。
我々のいる現実と、映画という夢、そして映画の中の夢が階層を作っているのだ。
さらに、映画は単にスクリーンなのではない。あるいは単にスクリーンに写し出される映像なのではない。
映画にとっての夢が、我々にとっての映画であるということは、映画が単に「映像」であるということではなく、我々が夢を視るように映画を視るということ、映画とは我々が思惟する内的なもの、すなわち映画が「イメージ」であるということを意味する。
以上が、『インセプション』という映画の2つ目の特徴である。
ここまで確認してきたのは、まず第一に、『インセプション』が「映画を視る者と見せるもの」についての映画であり、我々もまたその映画を視ることから、「映画を視る者と見せる者」についての映画を視る者と見せる者、という入れ子構造が発生すること。そしてこの入れ子構造が「現実と夢(映画/物語)のなかで」成立していることだ。
第二に、映画の中の階層構造(夢の中の夢)から現実へと浮上して、観客は目覚めるということだ。『インセプション』は、映画のなかで、「現実のなかの夢の中の夢」という階層構造を成立させるだけでなく、現実と映画とで階層構造を成している。映画が現実に置かれ、観客によって視られることによって補完されるということだ。
以上2つの事柄から、『インセプション』は、映画が独立して完成しているのではなく、現実にいる観客によって視られることで、物語の深部から現実へと「浮上」ないし「目覚め」を促すような体験であるということだ。
このような「物語と(それを視る我々のいる)現実」という関係は、今後ノーラン作品について述べるにあたり何度も登場するので、どうか覚えておいてほしい。
・・・・・・・
クリストファー・プリースト作、長編小説『奇術師』を原作とした映画『プレステージ』は、「本を読むこと」に潜む階層構造と、時系列の交錯とを兼ね備える作品である。
ノーランが描きたいのは、3つの階層の間に生じる相互作用的関係だ。
★作家と物語の関係・書く者と書かれるもの(者)との関係を、階層と相互作用を通じて描く。
時系列をいくつかのパートに分け、あるパートが別のパートの結果としてあるという因果関係の設定が、「書くこと」「書かれること」という関係を提示する。
読むものと読まれる者との関係(日記と読み手との関係)により、パート間の関係が「前後関係」から「階層構造」(作者と作品)との関係に転ずる。
「書かれたものが読む者を騙す」ということに、映画と鑑賞者との関係(急に)を見て取れる。
像:分割され得ないもの。イメージ。部分を持たない、それ自体が1つであるもの。ある1つの心的状態。心象。心象風景
私たちは、自らによって発された言葉の正しさを考えるとき、「他人の目」によって行う。
それはあくまでも「自分の目」(自らのなかに養われた判断基準・価値基準)でしかないのだが、「自分の目」で自分自身を評価する。
「私の考え」について、自らの目で正しさの網の目(ふるい)にかけるとき、私たちは、「私の考え」について考えている。
私の考えについて考えるその判断基準についても考える、ということをすると無限の入れ子構造がつくられて、際限がない。
やがて私たちは、冴えた現実を生きる。
原型の「私の考え」に浸ることはあたかも映画・物語の世界に浸るようである…
4.14
・・・・・・・
MEMENTOについて
前向性健忘を患った男が、妻殺しの犯人を追い求める物語。
ついに復讐を遂げたかに思えるが、人違いであることが明かされる。
時系列を遡りながら、事件の真相を明かしていく構成が斬新。(巻き戻し)
メモに従って行動する男が、自らを殺人犯に仕立て上げる物語であるが、そうなったのも、「物語の作者がそうなるように仕掛けたから」。
「自らが自らを駆動する」奥に、作家という駆動者へとたどり着く。
ここに「作者が書く主人公が、自分自身の行動を決定づける(書く)」という入れ子構造がある。
作者が書く主人公が、自らを書く。
これはノーランが短編映像”Doodlebug”で描いたような入れ構造であり、すでにのちの『インセプション』と同様の入れ子構造が見て取れる。
どれほど現実主義を徹底しようとも拭うことのできない作家の存在、そして作家の成す作為。
現実主義の限界に予防線を張るようでもあり、現実主義のなかに「作家の存在」という事実を入れ込むことこそ現実主義徹底の極致にも思える。
映像の中でどれほど辻褄を合わせようとも、全ての端緒を握っているのは作家である。「作家が創作するから作品が在る/作品はそうなった」という確固たる事実に、創作における、デカルトのcogitoに相当する高みを見る。
本質的には「作家が、読み手が願ったからそうなったに過ぎない」物語を、ナラティブは現実主義という「嘘」によって、物語世界の内部の独立した事象として成立させようとする。ナラティブが全体の整合性を保つために行うこの現実主義(真実味)こそ嘘で、我々がそう願うからそうなったに過ぎない嘘こそ真実だ。この倒錯。
「我々が願っているだけー。」という、物語の1つの原型を確認させくれる。
「私は考えている」を考えたとき、私は「私は考えている」を考えている。と、考えた時、私は「私は「私は考える」を考える」を考える
「考える自分」を自己認識する入れ子は無限である
6.12/2023 -その2:C.ノーラン『インセプション』論/メタ体験、入れ子構造
INCEPTION (2010)
潜在意識は、人間の無意識な行動選択(行動決定)に深く関わっているという。
「潜在意識への介入と、それを操作する試み」といえば、映画もまた、人間の内部に眠る意識を呼び覚まし、ガイドする。
映画作家は、自身が抱く「イメージ」を映像として固定する。
映像が、視聴者の「イメージ」を深く呼び起こすほど、映画と視聴者のあいだに発生する共振は大きい。
より"moving"な作品を製作することは、映画作家にとって1つの目標である。
映画作家が"moving"な作品の設計を試みるように、映画の主人公が、個人を駆動する夢を体験させようとする。
INCEPTION は、「人間の行動に変革をもたらす夢」を見せる主人公の姿を通じ、観客の心を動かす取り組みである。
このことに気がつくとき、私たちは、「映画を観ている自分自身の姿」を俯瞰(メタ認知)し、映画の中には登場しない映像作家の姿が浮かび上がる。
Cf. Doodlebug (1997)
3/15
通常、『トゥルーマン・ショー』『マトリックス』『シャッターアイランド』などにおける「メタ的な気づき」(真実の世界を知る気づき)は、観客の想像力の世界内で完結するのだけど、『インセプション』においては、序盤に「想像界における気づき」を体験させたあと、スクリーンという想像界と観客にとっての現実界とのあいだで、メタ的な気づきを成立させている点が真にリアルで生々しく感じる。ということを自分は言いたかったっぽい
3/19
INCEPTIONの照明、すべてペンローズステップを映像化するために仕組まれている説
The Prestigeに登場する中国人奇術師ってこと?
4/1
6.12/2023_C.ノーラン『メメント』評論
因果関係の説明は、通常、〈原因→結果〉の順番でおこなわれる。
これは時系列の順に等しい。
しかしミステリ作品(小説、映画など)においては、この順序は逆転する。
まず結果が登場し、次に原因が登場する。
ここで、次の対応関係に注意されたい。
結果=謎 原因=真相
ミステリ作品は主として、謎を解明する過程を描く。つまり、すでに発生してしまった出来事について、その原因を探求する。
物語が終盤に近づくと、探偵/主人公は、証拠に基づき、事件が発生する過程を時系列順に説明する。すなわち、初めに述べたような、「原因→結果」の順序で説明する。(種明かし)
一般的に、捜査過程の時制は〈現在〉である。
一方で、集めた証拠に基づいて、種明かしが行われる時、事件発生の過程は、時制が〈過去〉のものとして語られる。
このように、説明の対象となる因果関係の時制が〈過去〉であるとき、物語はしばしば、回想やセリフという形式を取る。あくまで、主人公の探偵らの現在を基準にして、登場人物の回想やセリフという形式によって因果関係が語られるのである。
このように、現在形からはずれてしまう因果関係を、現在形で描きたいというのがクリストファー・ノーランの『メメント』という試みである。
『メメント』は、時系列の因果関係を、分割し、順序を入れ替えることによって、従来通りの結果→原因という物語形式を維持しながらも原因=真相を明かすという娯楽性を保ったのである。
『メメント』は、現在形によって提示されるシーンを、単に並び替えれば因果関係がそのまま説明される。そこに事象の前後関係、順序は存在するけれども、すべての事象は現在形として発生する。
事象の因果関係を、セリフや回想という形式で現在形の外に置くことはないのである。
フィクションにおいては開示される真相が、回想やセリフといった「現在形の外」に置かれるさいに、原因から結果までの説明が順序立てて行われないことがある。
つまり、明かされた真相どおりに事象が起こっていき結果まで至ることの(必然性・蓋然性)が担保されないのである。
真相を聞いた瞬間は、その斬新さ・鮮烈さにハッとさせられるけれども、実際にそのような原因を仮定した時に、はたしてそのような結果が得られるだろうか、非常に確率が低かったり、他に起こり得る可能性を消去しきれていなかったり、非合理であったりする。
ノーランは、あらかじめ、因果関係のもっともらしく確立されたことがらを、分割し、順番を逆にして提示する。
このように、①現在形の映像を撮影すること、②原因から結果までの因果関係が強固であることが、クリストファー・ノーラン映画の基盤である。
ー1.27のメモを改筆
【追記】イメージやコンセプト、アイデアの段階に留めることなく、「それが現実に発生したら」という思想のもとで。事実主義。
・・・・・
【要旨】ミステリ作品は、娯楽性のため、「結果→原因」という順序で、因果関係を構成する事象を登場させる。しかし、時系列どおりに因果関係の再構成する作業はしばしばおざなりにされる。
そのため、因果関係の論証としては不完全で、説明不足に陥りがちであったり、時系列通りに再構成すると、その蓋然性の低さが際立ってしまったりする。
映像内で説明が尽くされる作品を目指し、かつ、原因から結果まで因果関係の蓋然性を高めるため、クリストファー・ノーランは「時系列通りに(並べ替える・整序する)」だけで完全な説明として成り立つ作品を完成させた。
単に因果関係の順序を逆転させるのではなく、前進性健忘の病理を利用し、誤謬の過程を描くことによって娯楽性も高めた。
これによって、結果→原因という従来からのミステリ映画の骨格を維持しながら、因果関係を再構成した時の蓋然性も高めたのである。
・・・・・・
4/8・追記メモより
6/12・改筆
MEMENTO(2000) が採用したのは、「現在形の貫徹」「映像内において説明を尽くす」スタイルである。
TENET(2020) はこのスタイルを、①主観的な体験 として②意識の連続性を保ったまま、中断(分割・分断)を生じさせることなく、シームレスなスタイルへと昇華させた。これによって、より「正しい」体験として映像を提供した。
ここでいう「正しい体験」とは、意識の中断を発生させずに真偽の判定を行わせることである。(?)
ノーランの映像製作の思想は、文筆家の思想にも近いものがある。数学的命題が真偽の判定できる文として記されるように、「事実かどうかを判定する」という考え方が根底にある。
真偽や事実にこだわりながら、映画そのものがもつ作為性。主人公を動かし、作為をなす作家。作家の姿を、主人公を駆動する正体として映像に入れ込むことで、・・・(書きかけ)
★「数学的命題のような文章」という思想に基づいた映画設計
→真偽の判定できる文。事実性。
TENETのUターン構造
→映像によるネタバレ。現在形として犯人を目撃することが、自分が犯人として犯行をおこなうことだった。それも時間の逆行によって。
Uターン構造
無知な私と、「真相を知った私」
主人公と作家
真相を知る、メタ体験
物語世界から、現実世界にいる私たちへの浮上体験
「映画という作為をなす私」という事実を映像に収めたい、という発想(欲望?欲求?試み?挑戦?)
6.11/2023
着なくなった服、聴くことのなくなった音楽、もう読まない本。
…かつて必要だった哲学・思想。
それは薬のようなものだから、治療が済んだらもう摂取のいらないのかもしれない。
・・・・
映画『バットマン・リターンズ』(1992年/ティム・バートン監督)を視た。
3~4度目だろうか。
両親に捨てられた奇形児ペンギンは、街の有力者の秘密を握り、彼の支援を得て市長選出馬を目論む。
同じく有力者の秘密を知ってしまった彼女の秘書セリーナ・カイルは、口封じのために殺されるも、猫の命を得て「キャットウーマン」として蘇る。
地下から地上へと進出する孤児。女だからと差別的待遇を受けていたセリーナ。
どちらも底辺からの脱出を試みる。
遺児として育ったバットマンことブルースは、ペンギンに共感しながらも、街で頻発する事件の首謀者として彼を調査する。
ティム・バートン版の第1作『バットマン』(1989)では、ブルースが両親を失った過去は描かれながらも、彼がバットマンとなる過程は描写されなかった。
それはコミックなどによって周知の事実でもあるし、「正義のため」という建前は広く一般に理解されやすい動機であるから省略がちだけれども、その過程をノーラン版『バットマン・ビギンズ』(2005)は丁寧に段階を踏んで密に描写した。
それに比べると、『リターンズ』におけるセリーナからキャットウーマンへの変貌は、その心理的背景からコスチュームの制作まで、『ビギンズ』には及ばずとも真摯に描写されているように感じる。
DCコミックはMARVELと並ぶ米コミック出版社のに2大巨人であり、スーパーマンと並ぶ最古参かつ筆頭格だけあって(そして第1作がヒット・成功したであろうことも受けて)、制作費は豊富にあったようで、セットや美術・衣装・ガジェットに投入される予算の潤沢さが伺われる。
ノーラン版にも言えることだが、『バットマン』『バットマン・リターンズ』ともに架空の街ゴッサムシティの作り込みによって街全体というものがイメージされ、さらに公共性 ー新聞屋テレビなどのマスメディアや市・警察といった公的機関が必ず描かれる。そしてメディアを利用しようとする登場人物がおり、メディアに踊らされる市民、一般大衆が仮想される。
ノーラン版の第2作『ダークナイト』(2008)では、ジョーカーが市民を踊らせるのだが、ここに「劇中でメディアを利用するジョーカー」と「劇によって心を踊らされる観客」がおり、作り手は「劇中の人々の操作」と「劇を視る人々の心理操作」という二重の心理操作を行うことになる。
ここに発生する入れ子構造は、Doodlebug (1997)にてノーランが描いたおそらく彼のテーマであり、そして『インセプション』(2010)にも通ずる、作家的な手法でもある。
( (劇中における人々の情動) 観客の情動) ←作家による操作
作家は、登場人物を操作して作中における大衆の反応を結果として想像しながら、作品を見る観客の反応も待つ、ということ。
さて、『リターンズ』では、同じ孤児/遺児でありながらも、子供の誘拐へ走るペンギンと、子供を守ろうとするバットマンで明暗が分かれるのだが、子供向けのお伽話として描かれた童話にとって必要なヒーロー像を提供しているとはいえ、バットマンが正義でいられるのは彼が裕福な生まれだからという感を拭えない。
その点を明確にし、矯正してくれるのがノーラン版『ダークナイト・ライジング』(2012)だろうか。
[追記] アクションシーン -バットマンというマニッシュな主人公を中心とした- が、さほど多くはない印象のある今作だが、クリスマスを舞台に、視覚的な幻想性と児童絵本らしさにティム・バートンの作家性がよく出ており、ヴィランの悲哀を丁寧にえがいている。
「遺児としての孤独」「動物というモチーフ」という共通点を持ちながら、その貧富の差によって善悪が分かれてしまったバットマンとペンギンであるが、今作における第三のヴィランとも言える大企業の社長もまた、子を思う一面を見せながらも、悪行に走ってしまう。同じ富裕層でありながらも、その権力の使い道が分かれるという点で、この社長とバットマン(ブルース)とは対照的であるのかもしれないが、ブルースの経営者としての側面が描写されていないので、比較としては不足である。
ペンギン、セリーナ、そして社長と、いずれもその凶行の動機に納得のいく理由があるだけに、今作はバットマンの影が薄く、またアクションシーンがとも、コンセプト面で、「人形遊び」の発展型としての、キャラクターを対立させる映画の楽しさがある。
メモ:猫は自立する
・・・
子供の頃、楽しかった映画。今ではつまらないと感じる映画。
供給によって満たされる需要があったということ。基盤になった映画。
今必要なもの。かつて必要だったもの。
6.10/2023
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ひとりの人間にとって、ある楽曲が、いつでも一定不変の価値を持つとは限らない。
ここでいう〈価値〉とは、音楽理論や芸術理論によって楽曲を評価した場合の批評的価値とは異なる。音楽史上の価値ともまた別である。
気分の変化に応じて、その時々で、ふさわしい音楽というのは異なる。これが、今ここで話題にしたい楽曲の〈価値〉である。
気分に応じて変化する、ここでいう楽曲の〈価値〉が「飽き」と異なるのは、「飽き」が、何度も繰り返し楽曲を消費したことによる魅力や興奮・高揚の減退であること、そして「飽き」によって楽曲の魅力が半・永久的に損なわれてしまうのに比較して、気分に応じて変化する〈価値〉とは、適切なタイミングにさえその楽曲を聴けば、いつでもその価値を取り戻すという点にある。
そのような〈価値〉を持つ音楽は、煙草や酒、あるいは薬のように、気分に不足が生じているときにそれを補完するものであるということだ。映画音楽は、これに近い。
けれども「気分の変化に応じて持つ価値が変化する」音楽は、気分がその方向へと向かない時に一切価値を持たない。これは、映画における悲劇的なシーンが、喜劇的な楽曲を求めないのと同様である。ただし、寧ろ逆に、情景や場面と乖離した、真逆の効果を持つ楽曲を演奏するという演出の手法もあるけれども、それはギャグ映画やコメディに限定してのことである。
気分、アンビエント。
羊文学
青葉市子
Daughter
Ghostly Kisses
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